第135話
「うふふふふっ」
愉しそうに笑ったヴォラプティオは、顔を上げると唇の端に付いたエミリオ様の血を指で拭って、舐め取った。元から艶めいていた唇が、余計に妖しい色を深めたように見える。
「エミリオ様!」
「おい、動くなと言っているだろうが」
さすがに耐えかねたらしいユリウス様が、マクス様の静止も聞かずにエミリオ様に駆け寄り、ソファーに崩れ落ちるように倒れ込んだ彼の首を確認するように覗き込む。すぐ近くにヴォラプティオがいることになるのだけど、マクス様も強引に止めようとはしなかったから危険はない……のだと信じたい。
私が飛び出すことのないように腰を抱いたままのマクス様は、表情一つ変えずに様子を見ている。ヴォラプティオを攻撃するつもりもなければ、エミリオ様を助ける気もなさそうだ。
すぐにエミリオ様の側に駆けつけたユリウス様の一方で、レオンハルト様は国王様と王妃様を守るようなポジションに立っている。2人ともがこの位置を外れることで、国王様たちに危険が及ぶ可能性を危惧したのだろう。
大司祭様とソフィーも国王様たちの近くに避難していたのだが、エミリオ様が怪我をしたなら自分が動かねば、と大司祭様は思ったらしい。ユリウス様に続いて動こうとしたようだが、マクス様から一瞥されてやめたようだ。
エミリオ様の首筋を布で拭ったユリウス様は、そこに傷がないことに驚いた顔をしながらも
「エミリオ様! エミリオ様、ご無事ですか?!」
そう言いながら、倒れたままの彼を抱き起す。
ヴォラプティオという魔族への恐怖よりもエミリオ様の無事の確認をすることが優先されるあたり、その忠誠心は評価されていいだろう。当のエミリオ様は、どう思ってくれているのかは知らないけれど。
軽く揺さぶられたエミリオ様は、すぐに目を開けた。
「あ……ああ、うん」
額に手を当てて怠そうに起き上がり、しばらくボーっとしていたエミリオ様は、小さく頭を振ってからやっと返事をした。ホッとした様子のユリウス様を見て、ヴォラプティオは両手を広げて肩をすくめた。
「嫌だなぁ、だからなにもしないって言ってるじゃないか。ワタシはエミリオに危害を加えるつもりはないって言っているだろう? 彼を傀儡にするつもりなんてないんだ。その手の術にかかってるかどうかは、其処ら辺のが調べられるだろう? 好きなだけ調べてくれて構わないよ」
にまにま笑っているヴォラプティオは、ソファーに浅く座って組んだ足先をぷらぷらと揺らしている。しかし、魔族の言うことなど素直には信じられないのだろう。キッとヴォラプティオを睨みつけ「怖い怖い」と笑われたユリウス様はまた心配そうな顔でエミリオ様に寄り添う。
「エミリオ様、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。ちょっと驚いたけど、それだけ。痛くもなかったし、今も身体が痺れたりとかはしてない」
「念のため、確認していただけませんか」
本当に大丈夫だってば、と言いながら立ち上がってその場で足踏みしてみせたエミリオ様をじっと見ていたミレーナ嬢が、黙って彼の近くへ行く。
それから「失礼します」と目を覗き込んだ。しばらく視線を合わせていた彼女は
「大丈夫です。多分、本当に操られてはいないようですね。肉体的、精神的なダメージも――ないように見えます」
言うなり、すぐにこちらに戻ってくる。
そして私にそっと「お姉様の言葉で受けたダメージは、ノーカンで良いですよね?」と小声で言ってきた。
ノーカン? と瞬きで返せば
「あ、気にしなくていいですよね、という意味です」
にこっとかすかに笑って返してきた。
まだエミリオ様に異常がないかを確認していたユリウス様は、袖をまくらせて腕に異常がないことを確認したあと、シャツのボタンまで外してその上半身を隅々まで見ようとしたようだ。
「ちょっと、本当にどうともしてないってば。ユーリ、やめてよ。ちょ……もう、自分でやるから!」
強引にシャツを脱がせようとするユリウス様を避けたエミリオ様は自分でボタンを外してみせた。
私たちには見えないように隠していたようだけれど、その胸元にうっすらとなんらかの紋が浮かんでいるのが見えた。
「マクス様、あれは――」
「ああ、やられたな」
マクス様が溜息を吐く。
「魂の契約ってやつだ。ほら、あなたの胸にもあるだろう?」
彼は小さな声で言って、自分の胸の中央を指し示した。とんとん、と指先で軽く叩く仕草を見た私は、自分の胸を見下ろす。
私の胸の中央には、召喚した精霊の暴走を止めるため、いざとなれば私の命を奪うような魔法が刻まれている。術者であるマクス様と魂で繋がっているらしいけれど、普段それを自覚することはない。お風呂や着替えの時に見えてしまうと、思い出して少し気恥ずかしくもなる――というのは、今は関係のない話で。
「これと、同じものですか?」
「まあ、似たようなものだな。なにに反応するものかは知らないが。あと、命を奪うような作用まであるのかどうかは、詳しく見てみないとわからないぞ」
「マクス様は、分析する気はないんですね?」
興味がない、と言い切った彼は、しかし
「メニミにでも見せれば、喜んで解析してくれるだろうがな。気になるなら頼めばいい」
と教えてくれるのだが、エミリオ様とメニミさんがいつどこで会えるのかがわからない。
「危険なものじゃないよ。ただの魂の契約さ。エミリオがどこにいるか、ワタシがすぐにわかるようにしただけ。彼の想いが通じた時を見逃したくないじゃないか」
そんな時は来ません、と心の中で言い返した私だったが「えっ!?」と大きな声を出したエミリオ様に驚かされた。
「おやおや、迷惑だったかい? でも、もう繋げてしまったからねぇ。今更嫌だと言われても――」
「契約?」
「うん? うん、そうだよ」
確認してきたエミリオ様に、ヴォラプティオは笑顔で頷く。しかし。
「僕、きみを使役できるようになったってこと?」
「……え?」
「今、契約したって言っただろう? ってことはさ」
「契約はしたよ?」
「呼び出せば、いつでも手伝ってくれるんだよね?」
そんな風に思われるとは考えていなかったようだ。さすがのヴォラプティオも、頬が引き攣っているように見える。
「……手伝わせたいのかい? ワタシに?」
「え、うん。なんか、すごい力持ってるんでしょ?」
「……まあ、一応魔王って言われているからね」
そう、ヴォラプティオは魔王だという話だった。その、魔王を相手に、エミリオ様は続ける。
「やっぱりすごく強いんだね。良いね」
驚くほど爽やかに言った彼は、明るい笑みを浮かべている。
――絶対、良くない。
そう思ったのは私だけではないはずだ。
「……従属の契約では、ないのだけど?」
「勝手に契約しといて、力を貸してはくれないの? じゃあ観察されるの拒絶しようかな。見ないでよ、勝手に」
「………………いや……拒絶されても、見えるんだけどね……?」
と返したヴォラプティオは、あまりに想定外の反応を食らって戸惑っているようだった。
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