第124話

 にたりと笑ったオリバー様のような顔のがぞろりと溶ける。周囲に広がるのはどこか腐敗臭にも似た甘ったるいにおい。


「きゃっ?!」


 背後で悲鳴を上げたのは王妃様だろう。それはどろどろになってエミリオ様の全身に絡みつく。

 一度形なく溶けてエミリオ様に纏わりついたそれは、すぐに知らない顔の若い男になった。


 肩にかかる長さの、緩やかなウェーブを描く深い紫色の髪。顔の片側を軽く覆っている前髪は艶めいた雰囲気を宿している。そのアーモンド形の瞳は琥珀色で、濃く長い睫毛が美しさを引き立てている。形のいい唇には先ほどと同じような優し気とは言い難いような笑みが張り付いているけれど、それがまた危険な雰囲気を漂わせていて魅力的と言えなくもない。


 ――私と、同じいろ。


 多少の違いはあるが、紫の髪と金の瞳は私と一緒だった。

 そのことに少なからずショックを受ける。魔族のような瞳と言われるのには慣れていた。しかし、いざ目の前にした本物の魔族と思しき存在の髪と瞳の色が、自分と同じということには衝撃が大きい。

 これは偶然だろう。だがしかし。


「ヴォラプティオ……まさかこんな近くにいたなんて……」


 すみません気付いた時にはもう、と呟くミレーナ嬢に、マクス様は軽く首を振った。ヴォラプティオは、エミリオ様の首に絡みつくような格好のままでこちらを見る。その瞳は愉しそうに細められている。


「おやぁ? ワタシのことを知っている子がいるんだね。今まで此方の誰にも知られていないつもりだったのだけど、誰から聞いたんだい?」


 不思議な深みのある声。全体は軽く響いているくせに、しかし耳に残る声質だ。ああ、これに誘惑されたらひとたまりもないだろう、とそれだけで感じる。

『快楽主義の愉快犯』とはミレーナ嬢の言葉だが、この場においてこのような場違いな笑みを浮かべることが出来るだなんて、只者ではないことは確かだ。マクス様は魔族を「自分にとって楽しいか楽しくないか、それだけで動いている。玩具で遊んでいる子供のようなもの」と評していたが、今この瞬間、彼の玩具は間違いなくなのだ、と認識した。


「せっかくここまでお膳立てしたんだからさぁ、もうちょっと愉しませてもらわないと。ねぇ王子サマ、まだあの子を諦めきれてないんだろう?」

「……僕、は……」

「言わなくていいよ。ワタシは全部わかってるからね。うんうん、諦める必要はないんだよ。だって、キミにも資格はあるはずだもの」


 んふふっと笑って、ヴォラプティオはエミリオ様に顔を摺り寄せる。エミリオ様の頬が引き攣る。カチッ、と剣が鞘と擦れる小さな音がした。


「動くな」


 マクス様のその言葉は、背後のレオンハルト様やユリウス様、大司祭様、それに国王様に対してのものだった。剣に手を掛けたレオンハルト様は、この静かな威圧感の中でもまだエミリオ様や国王様を護るべく動こうとしたようだ。ユリウス様や大司祭様も、もしかしたらなんらかの魔法を発動させようとしたのかもしれない。私では、まだそれを感知できるほどの力はなかった。


「余計なことをしては無駄に命を落とすぞ。人間、しかも見習い程度ではどうせ敵わない。今は気紛れに殺さずにいるだけだ。相手の好意に甘えておけ」

「そうそう。駒として要らないのはねぇ、生きてても死んでても、どっちでもいいんだよ。そして、此れはワタシの大事な駒だからね、殺しはしない。そんなに怖い顔で見なくて大丈夫だって」


 つぅっと長い爪で頬を撫でられたエミリオ様が息を呑む。


「こういうのには免疫がないのかな。んふふ、可愛いねぇ」

「おま、えは……」


 震える掠れた声で、エミリオ様が尋ねる。


「ワタシかい? さっきそこの娘が言っただろう? 名はヴォラプティオ。あっちの世界では、快楽の象徴、誘惑の王とも言われているねぇ」


 ちなみに魔族だよ、と付け足す口調は心から楽しんでいるように弾んでいて、歌うように喋る様子からは悪意は感じ取れない。しかし、邪悪だ、と本能が察している。


「そこの子を取り合うのを、そんなに簡単に諦められちゃ困るんだよ。ワタシが苦労したのが台無しじゃないか」

「そこの子……?」


 マクス様は首だけで振り返って、ミレーナ嬢と私を交互に見る。どちらだ? とでも言いたげな顔をしているけれど、ヴォラプティオが「取り合い」と言っている以上、思い上がりのようで恥ずかしいが多分私のことを指しているのだろう。


「まあ、意味などどうでもいい。お前はなにをするつもりで姿を現した? 今まで歴史舞台からも隠れておいて、ここにきて表に出てきた理由は?」

「ワタシが誰だかわかったうえで、そんなに余裕だなんてねぇ……ああ、本当にあれを思い出してしまう。その目、そっくりだよ」


 マクス様の言葉に、少しだけ不愉快そうに眉をひそめたヴォラプティオだが、またすぐに愉悦に浸っているような顔になる。途端に、空気がねっとりと粘度を持つような感覚に陥った。これは、魅了の魔法にも似ている。人間にとっては、きっと毒だ。

 視線を横に投げれば、ソフィーがどうしよう、という顔で私を見る。防御魔法を張るべきか、少なくとも国王様と王妃様は守るべきではないのか、しかしマクス様からなにもするなと言われているので動けない、そんな顔だ。そんなの、私にも判断がつかない。でも、あのマクス様が動くなと言っているのだから、なにもするべきではない。

 もうちょっと耐えて、という気持ちを込めて首を横に振る。


「あれ、というのは、オスリアン王のことですよね。彼がどう関係しているのですか。シルヴェニア卿やエミリオ様とどのような関係があるんですか」


 突然、ミレーナ嬢が口を開く。ほ、と唇をすぼめたヴォラプティオはすぐにまたにたりとその形を弓形にする。


「おやおや、そんなことまで知っているのかい? 娘、何者なんだい?」

「当代の聖女、と呼ばれています」


 魔族を前にしても声1つ震わせずにミレーナ嬢が言う。「聖女?」と繰り返したヴォラプティオは、一層楽しそうな顔になった。


「あはは! ごめんごめん。興味なかったから気付かなかったよ。そうか、キミが今の聖女かぁ。この国では、聖女と王子は結婚することになっていたんだったね。なのに、肝心の王子は別の娘に夢中……っふふ、それは面白いことになってたんだね。国王含め、困ったことだろうねぇ」

「……あなたは、今までエミリオ様の近くに潜んでいたのではないのですか?」


 なのに、どうして自分を知らないのか。彼女はそう言いたいのだろう。


「だって、興味ないからさ。興味のないものに無駄な意識を割く必要なんてないだろう? ワタシは面白いことだけでこの頭を満たしていたいんだよ。そうか。キミはこの子の近くにいたんだね。なんだ、もっと早く主張してくれたら、此方だって興味を持てたのに」


 もっと早く言っておくれよ、とヴォラプティオは言いながら、エミリオ様の頬に伝う冷や汗を舐めた。ぐっ、と息を呑んだエミリオ様は、間近で感じている魔族の気配と香りに息も絶え絶えな様子に見える。背後から抱き着いている姿勢のヴォラプティオは、エミリオ様の首を絞めたりはしていない。ただ、それこそ恋人にしなだれかかるような雰囲気でいるだけだ。

 ――なんとか、あそこから助けなくては。

 チャンスを窺いつつ、マクス様からの許可が出るのを待つ。今の私に出来ることがあるとすれば、風魔法の加速を使ってあの魔族からエミリオ様を奪い取るか、もしくはルクシアを呼んで魔族の拘束をお願いするかだ。

 ――1人で召喚したことはないけれど。

 それに、これだけの大人数の前で使っていい力でないこともわかっている。しかし、エミリオ様はこの国の第二王子だ。価値のある方だというのは事実。いくら殺さないと言っていても、魔族は気まぐれだという。いつ気が変わってしまうかわからない。


「あなたは、なにが望みですか」

「この場でワタシと交渉する役目は、娘のものなんだね? ふぅん」


 ヴォラプティオの視線はマクス様に向いたようだ。しかし、彼が反応した様子はない。そんな反応も面白いのか、ヴォラプティオはくすくすと笑う。豊かな髪を振るって両目を出した彼は、長い舌で自分の唇を舐めた。そして、ゆっくりとまた歌うように言った。


「ワタシの望みなんて1つに決まってるじゃないか。最高の見世物、それだけだよ。運命の恋の天秤はどちらに傾くのか、ただそれだけに興味があるんだ」

「……運命の恋、ですって……?」


 その言葉に聞き覚えはなかったのか、ミレーナ嬢の毅然とした声にわずかな困惑が混ざった。

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