第121話

 考えてみれば、あの時彼は、私の宣言時にわざとエミリオ様の名前を入れなかった。あの場にいた男性であれば、誰でもあの誓約書にサインをして私と婚姻を結ぶことが出来るように仕向けていた。

 誰でもいいと言っていたものの、あれは王族のためにヴェヌスタ自らがお作りになったもので、使えるのは、当然王族のみ。つまり、あの場において結婚可能な年齢の未婚の王族は、エミリオ様を除いてはほぼ彼以外の選択肢はなかった。


 即決でほぼ初対面の男性と結婚をしなければいけない、なんて……ああ、そういえば、彼は私のことを王城の図書館でも見掛けていたと言っていた。あちら側からすれば、私はまったく初対面というわけではなかった。

 じゃあ、もしかして。

 あまりにもタイミングの良すぎる聖女の覚醒とその報告。誰も文句のつけようがない事案。

 彼は、一足早くその可能性を耳に出来る可能性はあったわけで。

 今の今まで、その言葉が本当だと思っていたけれど――もしかして、あれは真実ではなかったのかもしれない。


 などということを一気に考えてしまった自分に怖気が立つ。口を押さえて、強烈な吐き気に耐える。

 私はなにを考えた?

 マクス様を疑った?

 ――どうして。なんで。

 ぐらぐらと眩暈がする。


 ――違う。私、わたしが愛しているのは――


 世界が回って、真っ暗な中に沈み込んでいくような感覚に陥る。

 その時、ぐっ、と二の腕を強く握られた。温かなものに抱き寄せられ、狭くなっていた視界が戻ってくる。少し冷静になったところで隣を見れば、ミレーナ嬢がこちらを見ていた。


「お姉様」

「……大丈夫よ」


 ごめんなさいと謝りながら、彼女の腕を外してもらう。ミレーナ嬢はソフィーと頷き合うと、エミリオ様の隣に戻っていった。私の隣には、立っている位置を交換するようにソフィーがやってくる。ミレーナ嬢の隣にいなくて良いのかと目で問えば、ソフィーは小さく微笑んで左右に首を振った。具合が悪そうな態度を続けるわけにもいかない。背筋を伸ばして立ち直し目線を上げると、エミリオ様はかなり立腹している様子だった。

 エミリオ様は、常日頃とても朗らかな方だ。このように怒りを表すことは珍しい。


「まったく、どいつもこいつも話にならないな。これを認めたはずの先代の大司祭は連絡がつかないというし、この誓約書に問題はないと教会は繰り返すだけだし、どうして女神がこれを認めてくれたんだ? ねえ、ビー? どういうことなんだい? 正直に話してくれないか」

「……私、は、エミリオ様もご存じの通り、あの日その誓約書にサインしただけです」


 詳細は、私からは話すことが出来ない。これだけ多くの親衛隊の騎士、そして教会の方々がいる前では、とてもではないけれど事実を口に出来るはずがない。エミリオ様1人ならともかく、ここでは話せない。

 隣に辺境伯として立っている男が、実はその先代司祭で、現魔導師の塔のマスターで、しかもエルフ族の王だなんて。すべて事実だとしても、誰が信じるというのだろう。


「でも、僕はしていなかった。王族である僕がサインしていないところに、どうしてその男の名前があるんだい?」

「それは、私がサインしたから以外に答えはないのでは?」

「シルヴェニア卿には聞いていないよ」


 埒が明かないな、と呟いたエミリオ様は、それを丸めるとオリバー様に手渡した。リボンでくくられたそれは、オリバー様がしっかりと腕に抱えた。


「ところで」


 オリバー様は私たちの結婚誓約書を手に持ったまま、にこやかな笑みを浮かべた。


「ベアトリス嬢はずいぶんと体調が悪いように見える。ミレーナ様、なぜ回復魔法を使わないのですか? なにか理由があるのなら、ぼくがやりましょうか」


 オリバー様の言葉に、ミレーナ嬢は無表情で見返す。一瞬空気がひりつく。彼女のそんな表情は見たことがなかった。その場の誰もが、少し驚いたようだ。


「どうかなさったのですか?」


 しかし、そんな顔をされてもオリバー様は動揺を見せない。


「いえ、そうですね。多少の体調不良ならば回復魔法やポーションを使うべきではないと思ったのですが……まだお話が続くのでしたら、この場では応急処置として仕方ないかもしれませんね」


 ミレーナ嬢はマクス様を見る。彼は無反応だ。

 彼女が魔法の使用を躊躇っている理由はわかる。今、この場で、いつもの指輪を使っての回復しているふりというのは使えない。この場に神聖魔法を使える教会の方々、そしてオリバー様がいる以上、それが偽物であると見抜かれてしまう。しかも、医師による治療ではない。服を脱ぐ必要もないから、別室への移動も難しい。

 私の側までまたやってきたミレーナ嬢は至極真剣な表情で頷き、祈るように手を組んだ。


「――ヴィタエ・レヴィヴァ」


 皮膚の表面が淡い光に包まれる。温かなもので身体の中が満たされる。

 その温かなものが身体の奥のどろりとしたものを照らす。雪が太陽に温められて解けていくような感覚。しかし、液状になって流れて行ったそれは、またすぐに形を取ろうとして腹の奥でぐるぐると動いているように感じられる。

 これは、もしかして私に掛けられた術なのだろうか。

 ふとそんなことを連想する。

 これのせいで、私はこんな状況に陥っているのだろうか。

 ――こんなものの、せいで。

 私の中から出ていって、と強く願う。同時に、ドクンと心臓が強く脈打った。


「……っ?! は――」


 突然の衝撃に、胸を押さえて呼吸を荒げ、身を屈めた私に即座に駆け寄ってきたのはエミリオ様だった。


「ビー?!」


 私をしっかりと抱き締めて、顔を覗き込んでくる。マクス様は、黙って私を見たまま動かない。


「は……っ、ぁ……っ、はっ」


 いつもとは全く違う動悸に、脂汗が浮かぶ。呼吸を整えようとしても、乱れた脈と同じく自分ではコントロールできない。

 苦しい。

 思わず自分の身体を支えている腕に縋りつくと、さらに強く抱き締められる。


 嫌だ。

 気持ち悪い。

 これは、違う。

 この人じゃ、ない。

 私がこうして支えてもらいたいと思うのは――


 しかし、視線が合っても、マクス様はなにもしてくれない。


 ――ああ、どうして……


「ミレーナ!! 彼女になにをした?!」

「なっ、なにも……っ! ただの回復魔法です!」


 ふるふると首を振るミレーナ嬢の言葉を補強するように「聖女様は通常の回復魔法を使われただけです。失敗もしていらっしゃいません。かなり、効果の薄いものだったようですが……このような反応を見せた人は見たことがありません」オリバー様は続ける。エミリオ様から視線を投げられた教会の方々も、同じような反応を見せた。


「だったらどうして、ビーがこんなことになってるんだ!」

「エミリオッッ!! お前勝手になにをやっている!」


 大きな音を立てて扉が開き、国王様の声がする。数名が駆け込んでくる音。


「まあ、ベアトリス、大丈夫?」 


 私は王妃様の手によってエミリオ様の腕から助け出されて、マクス様に渡される。


「申し訳ありません、シルヴェニア卿」

「……ああ、いや。あなたは悪くない。謝罪の必要はないよ」


 気もそぞろな態度で王妃様に答えたマクス様は、彼の方へ押し出された私に触れようとはしない。横から私を奪おうとするエミリオ様は、国王様に立ち塞がられて思うがままに出来ないでいた。


「マクス様」


 私から救いを求めるように彼に手を伸ばすと、躊躇うようにそっと触れてくる。その指先が震えていて、彼も不安なのだと理解して愛しいという気持ちが大きくなる。しっかりと握り返せば、冷たく凍り付いていた表情が解ける。

 先ほどエミリオ様に支えられている私に触れようとしなかったのは、私の具合を気にしてくれていたのかもしれない。もしかしたら、自分が触れたらまた自分の中に生まれる矛盾で私が苦しむかもしれないから、だから。


「マクス様」

「ああビー、私が触れても大丈夫なのか?」

「……少なくとも、今は大丈夫なようです」


 耳元で囁くように確認してくる彼に、同じように囁いて返す。


「抱き締めても、大丈夫かい?」

「……はい」


 ぎゅうっと強く抱きしめられて、全身から力が抜けそうになる。彼の腕の中におさまっていると、バクバクと変な調子で打っていた心臓が落ち着いてきた。彼の背中に腕を回して、胸に顔を埋めて、私の名前を呼ぶ彼の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。

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