第117話

 図書館から本館に戻る最中、運悪くミレーナ嬢とわかれた直後にオリバー様と並んで歩いてくるエミリオ様に出会ってしまった。


「ビー……僕を置いて、どこに行ってたのかな?」


 弱々しい笑みを浮かべた彼は、少し顔色が悪いように思える。

 睡眠魔法は、それだけで掛けられた際には寝覚めが悪いということはなかった。しかし、他の精神を操る魔法との重ね掛けをされた時には具合が悪くなったのを覚えている。

 ――エミリオ様もあの頭の痛い状態になっているのなら、本当に魔法で操られていると判断していいのかしらね。

 こちらの持っている情報は、少なくとも私が知らされている範囲では確実なものではなくて推測が多い。ここで、彼の様子と私の経験を照らし合わせて即時「本当に操られているみたいです」という予測を立てていいものかどうかは悩ましい。メニミさんにあとで確認した方が良いと判断した私は、微笑んで彼に会釈を返した。


「置いていっただなんて……良くお休みになれましたか?」


 わざとらしくならないように注意しながら尋ねれば、彼は小さく顔をしかめて「いつの間にか眠ってしまったみたいだね」と額を指で押さえた。


「お疲れなのかと思いまして、お邪魔にならないように退室させていただいたのですけれど」

「そんな気遣いは要らなかったのに。起こしてくれて良かったんだよ?」

「いえ。エミリオ様がお忙しいのは、十分理解しておりますもの」


 特に今は、以前と違って私が手伝っているわけでもなく、ミレーナ嬢はミレーナ嬢で忙しい上にまだ知らないことが多すぎて彼の手伝いは出来ない。しかも、婚約者でもないとなると、割り当てられる仕事はないのだろう。

 唯一の頼みになっていると考えられる宰相のご令息であるユリウス様は、エミリオ様と一緒に行動なさっていることが多い。やたらな場所に持ち出していいような書類はないから、彼が授業を受けている間に書類仕事を進めておいて……などというわけにもいかない。

 つまりは、エミリオ様は王城に帰ってもお仕事が山のように待っているということで、ヘラヘラしているように見えて、私に構ってばかりはいられないのだった。

 ――お可哀想に。

 私がお手伝いします、と言えば良いのだろうけど、今の私の立場を思えば信用されるはずもなく、誰でもできるような作業しか任せてはもらえない。それでは、エミリオ様の役に立つことはできない。それがなんとも歯痒がった。


「エミリオ様」

「どうしたの?」

「ご無理はなさらないでくださいませ」


 よく見ると、少しクマが出来ているだろうか。肌もいつものような艶はないようだ。ああ、どうして今まで気付かなかったのだろう。目の下にそっと触れれば、彼の顔がほのかに赤らんだ。


「ビー、僕のことを心配してくれるんだね」

「当たり前ではないですか」

「嬉しいな」


 ふわりと笑った彼の顔に、胸がとくんと高鳴る。目元に触れていた私の手に自分の手を重ねたエミリオ様は、頬に押し付けるようにしながらゆっくり目を閉じる。ほう、と溜息を吐いた後、彼はそっと顔を横に向けた。手の平に唇が当てられそうになるのを察して、腕ごと引く。


「どうして逃げるの?」

「エミリオ様、今の私に、それは――」

「……ああ、今のきみにするのは問題があるかな」


 今は人目があるからね、と私の耳元に囁いてきたエミリオ様は、くすりと笑って頬同士が掠めるような距離で身体を戻した。


「ねえ」


 彼がなにかを言いかけた瞬間、予鈴が鳴った。次の教室はここからは少し離れている。もう行かなくては遅刻してしまう。名残惜しいけれど、時間がなかった。


「では、失礼いたします」

「ああ、そうだ」


 しっかりと礼をして立ち去ろうとした私の背中に、エミリオ様が言葉を投げる。少し振り返れば、彼は完璧な笑顔を浮かべていた。


「近いうちに、そちらに知らせが届くと思うんだよね」

「はい」

「シルヴェニア卿を城にご招待することにしたんだ。あ、ちなみに拒否はできないからね。僕の選んだドレスを着てもらえないのは残念だけど、今は仕方ない。お気に入りを着ておいで。待ってるから」

「……? はい」

 

 なんの知らせかしら、と思いながら次の授業へ向かった私は、自分の身体に起きている変化に気付いていなかった。

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