第113話
「ご自分だけがすべてをご存じだと思っていらっしゃるのですか」
いつになく厳しいミレーナ嬢の言葉に、視界の隅でマクス様の唇がゆっくりと笑みを作る。主が侮られた場合、その臣下の誰がしかは反発するものだろう。しかし、ここにいるひとたちは誰一人として彼女に食って掛からなかった。
「いやいや、この世には私の知らないことはまだたくさんあるよ。むしろ知らないことの方が多いだろう。なんでも知っているだなんて、そんな驕り高ぶったことは思っていないよ。ははッ、私の物言いのせいでそのように考えさせてしまったかな?」
「……少なくとも、ヴォラプティオと魔族たちの力関係については、わたしの方が知っているはずです」
「へぇ?」
好意から来ているわけではなさそうな笑みを浮かべているマクス様は、ミレーナ嬢に対して怒りを覚えているのかもしれない。少なくとも、不快そうではある。
一触即発な気配に、軽く服を引いてこちらに視線を向けさせれば、一瞬冷たい目のまま私を見て、瞬きと同時に優しい笑みを浮かべた彼は、こめかみに唇で触れてきた。それから、すりっと頬を寄せて深く息を吸う。
――これは、落ち着くために愛玩動物を抱きしめて顔を埋めるのと同じ意味かしら。
なんて、今思うべきでないことを考える。じいっと彼を見ていると、マクス様は苦笑した。
「別に、喧嘩をしているわけではないよ。彼女の言葉に怒ってもいない。そんな不安そうな顔をしなくてもいい」
「本当ですか?」
「ん? ……うん」
にこ、っと笑う彼の笑顔は、どうにも怪しい。誤魔化しているようにしか思えない。
「それはそうと」
ミレーナ嬢もこのギスギスした空気感のままでいるつもりはなかったようで、明るい声を出した。
「名前もわかったことですし! 居場所を特定できるかどうかやってみます。少し待ってくださいね」
椅子から立ち上がると床に膝を折り、祈るように手を組んで目を閉じる。彼女の周囲が淡い水色に光り、髪がふわりと浮き上がった。
「あの……魔族の名前がわかるだけで、居場所を特定できるのもなのですか?」
「まさか」
ひそひそとマクス様に尋ねれば、肩を竦めた彼は軽い調子で「ちなみに私は無理だぞ」と続ける。
「そうなのですね」
「私もできないわよ」
ミレーナ嬢から離れたソフィーも近くに来て小さな声で言う。ふたりとも出来ないのね、と小さく頷けば、マクス様は喉の奥で笑った。
「ビーの期待を裏切るようで悪いが、さすがの私でもそれは無理だ」
なんでも出来るわけではないのね、と思ったのを見透かされたのか、彼はそんなことを言い出す。
「あなたは私がなんでも出来ると思っているようだからな。ちゃんと言っておかねばいけない。愛する妻の期待には添いたいが、出来ないものは出来ない。つまりは、私にはそういうのが出来ないから、ビーの身の安全のため、いつでも駆けつけられるようにブレスレットを付けてもらっていたんだよ。今は、エミリオに取られてしまったがな」
マクス様の指が私の手首を撫でる。その仕草に、あの日外されて以降新たなものを渡されていなかったことに気付いた。
次のものをつけたところで、外された時マクス様が現れては私の具合が悪くなる。そういう予測から、身辺警護をしてくれているアッシュを信じて次のものがここにはめられることがないのだろう。
改めて認識してしまえば、落ち着かなくなる。自分でもブレスレットをしていた場所を手で押さえると、上からマクス様の手で包まれる。
「申し訳ありません、マクス様。まだ、エミリオ様から返していただけていなくて……」
「まあ他の男から渡された装飾品など目障りでしかないだろうからな。もう捨ててしまったのかもしれないなぁ」
「そんな……」
彼の所有物ではなく私の持ち物なのに、勝手に外した上に、断りもなく捨てるなんて非常識なことをするだろうか。通常であればないと言い切れるが、状況が状況なので絶対に捨てられていないとも言い切れない。
お気に入りだったのに、と落ち込む私に「また落ち着いたら新しいのを作ってあげるから」とマクス様は耳朶を鼻先でくすぐるようにしながら囁いた。
「最初から目印となるような魔法の印を本人に打っておいたり、魔法具を持たせておいてその気配を探るならともかくとしてよ? 魔力の波長も知らないような相手の居場所を、名前だけで特定できるなんて……聞いたこともないわ」
ソフィーが追加で説明をしてくれる。
「神聖魔法ではそうなのね。マクス様、他の魔法もそうなのですか?」
「ああ。印を刻んだ魔法具の場所を捜索することならば光魔法でもできるが、名前だけでというのは私も聞いたことがない。あれは、ミレーナ嬢独自の魔法なのか?」
「わかりません」
ソフィーのミレーナ嬢を見る目はとても複雑そうだ。ただでさえ覚醒するまで教会の手の中になかった、それだけでなくルミノサリアで育ってもいない規格外の聖女様扱いだったのだろうに、神眼持ちで女神とお話した経験がある――そして、魔族について、教会やエルフの長が知らないようなことまでも知っている。彼女は何者なのか、と疑心暗鬼にもなっているだろう。
ミレーナ嬢が魔族の居場所を探っている間、邪魔をするわけにもいかないみんなは、少し離れた場所で彼女を見守っていた。唯一メニミさんだけはミレーナ嬢の近くにいって、なにかを観察しているようだった。手はせわしなくメモを続けている。
そして私は、相も変わらずマクス様の膝の上だった。
「……問いただしたところで、答えてはくれないんだろうなぁ」
ぼそっと呟いたマクス様は、私の頭にあごを乗せてくる。彼が答えを聞こうとしている相手は、愛の女神ヴェヌスタのことだろう。どれだけ女神と顔を合わせる機会があるのかはわからないが、
「あの、マクス様?」
「うん?」
「その姿勢は、その」
「ああ、すまない」
マクス様は、私の頭からあごを外すと肩に乗せ直す。そうすると自然と顔同士が近付いて、私は落ち着きをなくしてしまう。
「話せる時になったら話す……か。まあ、やらなければいけないことは決まっているからな。ビーがあの子を信じると言うんだ。お前たちも下手に疑うんじゃないぞ」
「奥様のお言葉ですもの、誰も疑いませんよぉ」
クララが言って、アミカが頷いた。
「……しかし、なんだって? ヴォラプティオ? 聞いたこともないぞ、そんな魔族。はぁ……面倒だな」
彼の唇が、耳朶に当たっている。吐息が耳をくすぐる。
それが意図的なものなのか、それとも偶然なのかはわからない。動揺を見せる方が恥ずかしい、と耐えようとしたものの、くすぐったくて小さく肩を竦めてしまう。私のそんな動きに、マクス様が低く笑う。
――これ、わざとね?!
1人ドキドキしていると、ミレーナ嬢がゆっくりと目を開けた。
「見つけました。ヴォラプティオは……」
と彼女が指差したのは――案の定王城の方だった。
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