第112話

 メニミさんが口にした単語を繰り返したミレーナ嬢は、しばらくしてハッとしたように目を見開いて両手で口を押えた。その指の隙間から見える唇が小さくわなないている。

 立ち上がってこちらに乗り出していた身を引き、ストン、と力が抜けたように椅子に腰を下ろす。


「え、待って。なにか聞き覚えが……なんだったっけ、ヴォラプ……? 確か、それって……」


 なにやら思案するように険しい顔になった彼女は小さな声でぶつぶつと呟きはじめた。しかし、マクス様の膝の上からではなにを言っているのかハッキリとは聞こえない。

 気になっているのは私だけかとみんなの様子を窺えば、全員がただ沈黙を保ってミレーナ嬢を見ていた。

 不安そうな表情を浮かべているのは、ソフィーとクララ。特に表情がなく、なにを考えているのかわからないのは、コレウスとアッシュとアミカ。しかし彼らは普段から表情豊かな方ではないので、いつも通りと言えばいつも通りだ。薄く笑みを浮かべているのは、メニミさんただひとりだけだった。

 マクス様は冷たい視線で、彼女を眺めている。興味の有無すらわからない顔。綺麗な瞳が、まるで硝子玉のようだった。

 みんなの視線を集めながら、ああでもないこうでもないと表情をころころ変えつつ思案していたミレーナ嬢だったが


「思い出した」


 数分して、その言葉を最後に独り言が止まった。

 そして、顔を上げるとはっきりした声で言った。


「愉悦の悪魔ヴォラプティオ。それです、エミリオ様に接触してきた魔族は」

「待て待て、なにを言い出した。愉悦の悪魔って、なんだそれは」


 マクス様は眉間にしわを寄せながらミレーナ嬢に人差し指を突きつける。ミレーナ嬢に寄り添うように立っていたソフィーは、小さく首を振った。

 ――嘘ではない、ということね。

 ソフィーは困惑を浮かべている。勉強熱心な彼女でも知らない魔族の名前だったのだろう。そもそも、マクス様やメニミさんが知らない魔族という時点で、その存在は疑わしいのではないだろうか。


「今まで表舞台には出てきていないはずの魔族です。どうしてメニミさんが知ってたんですか?」

「いや、メニミもだが、それが事実だとしたらどうしてあなたが我々も知らない魔族を知っているんだ?」

「誰から聞いたんですか?」


 マクス様を無視したミレーナ嬢は、興奮した様子でメニミさんを見る。尋ねられたメニミさんは


「光精霊が言っていたんだよー」


 とあっさり答えた。


「ただ、話の最後にぽつりと呟いただけだったからさー。なにか精霊たちの使う言葉なのかもなー? 呪文の一種かなーって思って書き留めてあったんだけどねー、そっかー、魔族の名前だったんだねー」


 メニミさんはふんふんと頷きながら手帳にメモを足す。楽しそうに新しく仕入れた情報を書き加えているが、正直そういう状況ではない。

 今まで知られていない魔族がいる。しかも新しく生まれたのではなく初代聖女の時代にはもういたのだという魔族が。

 ミレーナ嬢の発言からすると、初代の頃にも裏で糸を引いていた存在が今エミリオ様を操ろうとしている――いや、もうとっくに彼は操られているのかもしれない。私に対する異常な執着も、魔族に操られているからだと考えれば納得は出来る。それが、どうして私なのかという疑問は解消されないが、単純に元婚約者の私に未だに気があると言われるよりもよほどしっくりくる。

 それにしても、そのヴォラプティオという魔族が教会どころかエルフたちにさえも存在を隠しきった魔族なのだとしたら――小物過ぎて逃げ回っていたという可能性なくはないが――とてつもなく強いのではないだろうか。

 マクス様たちが警戒していたように、ミレーナ嬢の聖女としての覚醒はその魔族の活動に合わせてのものだったということになる。彼女は、魔族を封印する役目を担っているのだ。

 異界の扉の封印が解けるのだと思って警戒していたが、敵はとっくにこちらに入り込んでいたとなると、これからの動きも変わってくる。

 ――私のやらなければいけないことも、変わってくるのかしら。

 役に立てずとも、邪魔にならないようにしなければいけない。


「で、他になにか情報はないのかなー? ボク知りたいなー」


 メニミさんは新たな情報を前にほくほくしている。あまりにもマイペース。緊張した空気が彼の周囲だけは霧散している。


「聖女様はさー? それ、どんな魔族なのか詳しく知ってるのかい? 知っていることを全部教えてくれるかなー?」


 場にそぐわない満面の笑みで魔族の情報を引き出そうとするメニミさんを、アッシュは呆れ果てた顔で見ている。メニミさんの耳が、好奇心が抑えきれないというようにぴくぴく動いている。


「一言で言えば、快楽主義の愉快犯です。人々が混乱するようなことや、争い事を扇動するのを趣味としている魔族です」

「いや、魔族っていうのは得てしてそういうものだろうが」


 マクス様は心底嫌そうな声になる。なんというか、とても面倒臭そうだ。


「魔族は、自分にとって楽しいか楽しくないか、それだけで動いている。前も話したが、人間たちは魔族が侵略してきて自分たちの国や世界を踏みにじっていると思っているようだが、あれにそんな考えはないよ。玩具で遊んでいる子供と一緒だ。取り上げようとすれば全力で抵抗してくるし、飽きたらあっさり帰っていく。しかし半永久的な魔族の寿命での飽きたら、だからな。人間からすれば、何世代もちょっとした遊び心で混乱の渦に落とされる。迷惑なことに変わりはない。だが、それは魔族に共通する性質であって、それでは個の説明にならない。愉悦主義の魔族なんて掃いて捨てるほどいるぞ」

「ですから、逆です。ヴォラプティオの性質を、魔族すべてが持っているんです」


 どうしてわからないんですか、と言いたげなミレーナ嬢に、わからないのはどっちだ、とマクス様は目を細めた。


「なんだ、その魔族の大本みたいな言い方は」

「大本ですよ。すべての魔族の、頂点にいるのがヴォラプティオなんですから」


 はぁ? とマクス様は怪訝そうに片眉を上げた。「魔族というものはあくまでも個人主義で自分たちの利害が一致した時にしか手を組むこともない。そもそも――」という講義が始まりそうになったのだが、ミレーナ嬢はそれを聞こうとしなかった。


「魔王なんです、ヴォラプティオは」

「魔王? 魔族の王ってことか? いや、あいつらはどこまでも個人主義で、特定の存在に束ねられるような性質じゃな――」

「それを成してしまったのがヴォラプティオ……ヴォラなんですってば。彼が魔族全体にしばらく人間界に手を出すなって言ってたから、だから今まで大きな問題が起きてなかったんじゃないですか」

「あー……あぁ? ――お前、なにを言っているんだ? 気でも狂ったのか。そんな戯言誰が信じられる」


 遠慮のないマクス様の言葉に、ミレーナ嬢は「わたしは正気です」と真っ向から言い返した。

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