第104話

 鏡の向こう側で、ソフィーの微笑みが凍り付く。明らかな圧を受けて、それでもさして表情を引き攣らせなかったのはさすがだ。


『……なにか、他にも私が答えられるような質問はありますか?』

「いや……」


 特にない、と言おうとするマクス様の手を軽く握り返すと、彼は「ん? どうした?」優しい笑みを浮かべて私を見る。今さっきソフィーに向けたあのお顔とは全く違う安心できる雰囲気に安堵し、私は小さな声で尋ねる。


「あの、私からひとつだけ。あまり関係がない話かもしれないのですが、気になることがあるのです。ソフィーに聞いてみてもいいですか?」

「ああ」

「あのねソフィー。エミリオ様から伺ったのだけど」


 私の口からその名前が出た瞬間、マクス様の視線がじとりと湿り気を帯びる。周囲からも、不快そうな空気が漂ってくる。この反応は想像できていたので、気にせずに続きを口にする。


「聖女と王族の婚姻については、法で定められたものではないらしいの。必ずしなければいけないものではない、とおっしゃっていたのよ」

『あの王子様が?』


 案の定、ソフィーは知らなかったのだろう。彼女は驚きの声を上げた。他の面々はルミノサリアの国民でないばかりか、人間族でもない。そのような決まりがあってもなくても関係のないひとたちばかりだから、特に反応はない。そもそも、誰と誰が結婚しようと興味はないのだろう。


「それがどうかしたのかい?」


 メニミさんが手帳にメモを書き足しながら聞いてくる。話しながら指の上でくるくると回されているペンの動きが面白くて、視線を奪われそうになる。


「エミリオ様いわく、それは明文化されていないのだそうです。それから、現段階でミレーナ嬢との間に婚約は結ばれておらず、彼は自由の身なのだとも主張されていたの」

『そんなはずはないわ、ベアトリス。いいえ、確かにまだミレーナ様と第二王子の間に正式な婚約は結ばれていないけれど、でも結婚しなくてもいいだなんて話は聞いたことがないわよ』

「そうよねソフィー。私も、この国には『聖女が現れた場合、その時点で未婚の王族との婚姻を結ぶ』という決まりがあると伝わっているように記憶しているわ。でも、当のエミリオ様はそうとは思っていないらしいの」


 詳細は、エミリオ様も王族と教会のトップしか知らないと言っていたので口にするのを避ける。本来ならば、これすらも言うべきではない。しかし、この疑問点に関して私の知識だけでは判断がつかない。現時点でなにが起きているのかを全部把握しているのはソフィーだけだ。むやみやたらに他に話を広めるわけにもいかないという段階で、彼女以外に聞ける相手がいないのだ。


「それで? それのなにが気になっているのかなー?」

「でもミレーナ様は『エミリオ様の元婚約者なら、私の先輩です』とおっしゃって、私をベアトリスお姉様と呼んでいるのです。彼女にとっては、自分はエミリオ様の婚約者なのだという認識なのかと思うと……どちらが正しいのか、エミリオ様とミレーナ様が結婚しないという未来が有り得るのか、なにか事実なのか、わからなくなってしまって」

「で? エミリオはなんと言っていたんだ?」

「ですから、自分は恋人も愛人も婚約者もいない自由な身であると――」

「ああ、それじゃない。そこじゃない。聖女と王族の結婚が、なんだって?」


 言って良いものかどうか迷っていると、マクス様はパチンと指を鳴らした。瞬時に彼の姿が変化する。私が、はじめてマクス様にお会いした時の姿。藁色の長い髪に薄い若草色の瞳をした細面のマクス様とは似ても似つかぬ顔の男性。つまり


『パクトゥス大司祭様……っ?!』

「元だ、元。今の大司祭はカタリーナだろうが」

『え……えっ?! な……え? ベアトリス?! ねえ、ベアトリスっ』


 さすがのソフィーも動揺がすごい。しかし彼女は数度の深呼吸で落ち着いたようで、今度は『いえ、魔導師の塔のマスターであるシルヴェニア卿ですもの。変身魔法くらい簡単に使えてもおかしくはないわね。それにしても、魔導師の塔のマスターが元大司祭様……?』1人で悩み始めてしまった。

 そんなソフィーを放っておいて、マクス様は姿を戻すと私のあごに指をかけてくいっと上を向かせて顔を寄せてくる。


「ということで、ビー? それ、私も知っている内容かもしれないだろう? 細かく話してくれないか」

「確かに……言われてみれば、そうでしたね。エミリオ様は王家と教会のトップしか知らないことだとおっしゃっていたので、元大司祭様ならば御存知でも」


 そこまで言ってハッとする。


「マクス様、もしかして最初から、エミリオ様とミレーナ様が結婚しない可能性があるとわかっていたのですか?」

「うん?」

「王族と聖女の婚姻が当然のものとされているのは、これまでの聖女様とその当時の未婚の王族の誰かが、恋に落ちてそのまま結婚しているからなのですよね? 全員が恋愛結婚の元に結ばれているのですよね? エミリオ様とミレーナ様の双方から恋に落ちていないという発言があった今、やはりあの二人が結ばれるということはないということになって――」

「落ち着け、ビー」


 マクス様に肩を押さえられる。大丈夫、と優しく抱き締められる。そこで、自分の心臓がバクバクと大きく鳴っていることに気付く。


「だとしても、それはビーとは関係のない話だ。第一、この婚姻関係を解消しない限り、どう足掻いてみたところでエミリオがあなたを妻にすることはできない。結婚誓約書が無効だと訴えてみたところで、教会からだけではなく愛の女神ヴェヌスタからも認められた結婚だ。例え国王であっても簡単に否定することはできないよ」


 それは私でも理解している。とはいえ、不安なことに違いはない。背後に魔族がいるだなんて話を聞いてしまったら、なにがどう想定外の方向に転がるかわからないではないか。

 マクス様の言葉を信じたい。でも。

 いろいろ考えすぎて上手に笑えていなかったのだろう。私の顔を見下ろした彼は、耳元に囁いてきた。


「誰がなんと言おうと、私はあなたを手放す気はない。絶対にだ。だから、私を信じて、あなたは私の隣で笑っていればいい」


 その瞬間、今度は、別の意味で心臓がうるさくなる。頬を赤らめた私を見て、アッシュが小さく鼻を鳴らした。

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