第105話

 アッシュの反応にくっと喉の奥で笑ったマクス様は


「名残惜しいが、見せつけている場合ではないからな」


 と囁いて身体を離す。まだドキドキしている私に満足そうな顔をすると、軽く足を組んで髪をかきあげた。


「それはそうと、私が知っているものと、エミリオが言っている内容は違っているようだな」

「どのようにですか?」

「私が大司祭をしていた頃に聞いていたのは、聖女の出現は必ずしも良い知らせというわけではないということ」


 まぁこれは私個人の立場でも把握していたことではあるんだが、と言うマクス様は、エルフ族として人間の知らない話を多々知っている。コレウスやクララ、ミニミさんたちも同じかもしれない。それぞれの種族としての知識は、異種族の前で安易にひけらかすものではない。軽はずみな一言が、種族全体に関わってくる一大事に繋がるかもしれないのだから。

 彼らは今この瞬間も、今回の件に関して、私やソフィーの知らないような事柄を胸に秘めているのかもしれない。


「それから、聖女は王族との婚姻が定められているという話だ。これはビーたちの認識と一緒だな。歴代の聖女たちが、運命と思えるほどに劇的な恋に落ちて王族と婚姻に至っているという記録は、教会側も持っている。それは確かだ。この目で確認している。この国の王族は初代聖女の子孫だ。そんな王族の人間と代々の聖女が必ず愛し合ってきた――というのは、まあ運命の愛という言い方もあながち間違いではないのかもな」


 マクス様は、市井に流れるエミリオ様とミレーナ様の運命の愛説について言っているのだろう。キラキラした物語として支持されているそれは、しかし、今代に限ってそうではなかった。


『……運命の愛、それが真実でなくては困るのでしょうね』


 ソフィーは声に苦悩を滲ませる。


『ミレーナ様は、第三王子であるリュカ殿下とも何度もお茶会やダンスの練習をしていらっしゃいます。エミリオ殿下との間に目ぼしいものがなかったことから、運命はリュカ殿下にあるのかもしれないと思われたのではないでしょうか』


 まだ年若い王子とはいえ、彼も王族であることに変わりはない。すぐに結婚できる年齢の、王位継承権を持っている未婚の男性はエミリオ様だけだっただけで、リュカ様も未婚に違いはない。


『それでもミレーナ様は、王家にとって色良い反応は示されませんでした。可能性に賭けて遠縁の若い男性、それどころか既婚であるルドヴィクス第一王子とまでも面会が行われたのですが――』

「全員駄目だったんだな」

『これは後々お伝えしようと思っていた話なのですが』

「なんだ?」

『ミレーナ様は、聖女が王族と結ばれるという話は最初から理解していらっしゃいました。エミリオ様との結婚を拒絶しておられるわけでもありません。すべてを理解したその上で、エミリオ殿下にはほぼ興味がなく、一番良い反応をするのがベアトリスに関することなのです。ですからいっそ、聖女を正妃に、ベアトリスを側妃にして彼女の近くに置くことで、ミレーナ様の機嫌を取ればどうか、などという意見もあるそうです』


 なんだそれは、とマクス様は鼻で笑って「そんなことをしたら、王子と聖女の美しい運命の愛とやらに水を差すだけじゃないか。それともあれか? ビーと彼女の実家が、せめて元婚約者である娘に慈悲を与えて側妃にしてくれ、とごり押してきたとでも言うつもりか?」と片目を細めた。


『王家は聖女をその手中に収めたい。しかし、ミレーナ様を口説き落とせと言われているエミリオ殿下は未だにベアトリスにご執心。しかも、当の聖女様もベアトリスに夢中という状況……二人を結婚させたいと思っている勢力にとって、貴女は今も重要な人なのよ。現在はシルヴェニア卿の元で保護されていて、それから魔法学院にいることで外部から手を出しにくい状況にあるのは、不幸中の幸いだわ』


 実家の影響力などを含めて見た場合、「ベアトリス・イウストリーナ」に価値があると思われているのはわかっている。公爵家の娘で、王子の婚約者として認められたという王室からのお墨付きをもらった過去がある。妃教育も受け、それなりに使えるようにはなっているだろう。

 ただ、個人としてそこまで魅力的な人物なのかと言われれば、自分ではあまりそうとは思えない。魅力的という評価を受けたこともない。

 冷たい印象を与える容姿に加えて、目立って愛想がいいわけでも愛嬌があるわけでもなく、誰もが認めるような才能があるわけでも商才があるわけでもない。外見だって、絶世の美女などと評されたことはない。私と仲良くしたところで、聖女であるミレーナ嬢に得のあるようには思えない。そんな彼女が、私をやたらと好いてくれている理由が一番の謎だ。


「しかし、気になるな。教会側に力を持たせすぎないため、これまで過去の聖女たちが国に益をもたらしている実績があることから、王家がすべての聖女を手に入れたようとするのは理解できる。代々の聖女が自ら望んで王妃になってきていたとしても、次もそうなるかどうかはわからない。となったら、『結婚する決まりになっている』としてしまった方が国にとっては都合が良い」

「それならば、明文化されていない理由はなんでしょう? 『運命の愛』があるから大丈夫と思っていたのでしょうか」

「……そういう法があった上で、なおかつ本人たちが自発的に恋に落ちるというのが一番好ましそうだがなぁ……ルミノサリアの王族だけに伝わっているものは、さすがの私でも見られない。ビーの疑問に答えてやることが出来ないのが歯痒いな」


 結局、エミリオ様の主張が正しいのか否かはわからないままだ。


「ただ、そのような決まりが明確にはなかったのだとしても、国民はそうであると信じている。それが、国のため、ひいては自分たちの幸せに繋がると思っている。そして、事実聖女が王妃となっていた時代にはこの国が栄えている」

「ええ。ですから、エミリオ様とミレーナ様のお食事に薬が混ぜられていたこともあったそうです。惚れ薬とはっきりとはおっしゃいませんでしたが、多分」

「でも聖女には効かなかった。当然だ。そんなことも知らない者が混入させたのだろうな。その時エミリオはどうなったんだ?」

「ご自分については、なにもおっしゃっていませんでした」


 しかし、効果がなかったのは明白だ。


「歴代の聖女はいわゆる恋愛結婚をしてきているので、契約結婚のような形で聖女を縛った場合でも国が繁栄するのかどうかが定かではない、という理由で未だ婚約が結ばれていないとエミリオ様はおっしゃっていました」

「……だから今だったんだな。」


 黙って話を聞いていたアッシュが口を開いた。


「自分が公的に自由の身である今だからこそ、動けた。」


 みんなの視線を集めながら彼は続ける。 


「今の姫様の婚姻が無効だと証明できれば、汚いことをした悪者の手から救出したとして恩を売れる。それから、こういう言い方をしてはなんだが、姫様を汚せたら相手から離縁され、将来的に自分が囲えるかもしれない。だから、このタイミングで姫様に自分を好きになるような術を掛けた。」

『……既成事実を作るにせよ、両想いであればそういう仲になってもベアトリスは傷つかないし、自分を憎まないとでも考えたのでしょうか……だとしたら、愚かですわね』


 ソフィーは少し表情を歪める。


「しかも魔族の手を借りて、だねー。きっとあっちから持ちかけてきたんだろうなー。欲しいものを与えてやるとか言ってさー。正しくしよう、とか甘いこと言ったのかもしれないなー。きっとねー、その王子様は自分の取り引き相手が魔族だと気付いていないよー」


 しっかし魔族に操られるだなんて怖いねー、と言うメニミさんの口元は、明らかに笑っていた。

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