第100話

 こほん、と小さく咳をしたのはコレウスだっただろうか。その音にハッと我に返る。

 皆の前で言われたことに対して動揺している時間はなかった。そもそも、結婚してからそれなりになるというのに、まだ清い身体だというのも別に恥じるようなことではない。多分。それに、コレウスもクララもアミカもそんなことは知っていたのだろうし、動揺するようなことではない。

 気にするとすればアッシュの反応だけれど、彼は無の表情で座っているので、あえて様子を探るようなことはしない。

 ゆっくりと身体を離したマクス様は、私との間にねばーっと糸を引いたそれに少しだけ顔をしかめたものの、すぐにメニミさんに小瓶を持っているか尋ねる。


「あるよー」


 ぶかぶかのローブの中から空っぽの硝子の瓶を取り出したメニミさんは、その言葉だけでマクス様がなにをしたかったのか把握したようだ。「ちょっとごめんねー」と私の髪からそのねばねばを取って中に詰めると懐にそれをしまった。


「奥様、旦那様、お風呂は今準備させておりますので、申し訳ないですがそのままお話をしていただいても良いでしょうか」

「仕方ないわよね。私は大丈夫よ」


 コレウスが持って来てくれたタオルで、少なくとも顔に垂れてきていた分は拭き取れている。髪とそこから滴ったものは我慢することにする。どのくらいの時間、私がこのままでいられるかわからない。悠長にお風呂で髪を洗う時間が勿体ない。


「じゃああとで分析しておくねー、このユニコ――」

「えーっと!!!」


 クララが大きな声を出して、ぱちんっと手を叩く。


「奥様が旦那様を嫌ってない時間がどれだけあるかわからないので! さっさとお話をはじめませんかっ!」

「あーそうだねー」


 じゃあね、とメニミさんが話し出そうとしたところに、マクス様が口を挟む。


「まるで私のことをビーが嫌っているかのような言い方はないんじゃないか? いくら私でも傷つくぞ」

「事実じゃないですか。今の旦那様は事実奥様から嫌われてるんですよ。今は元に戻ってますけど、いつまた奥様にかかっている呪い? かなにかが発動するかわからないじゃないですか。そうなったら、奥様が頭痛と吐き気に苦しむことになるんですよ? お可哀想だと思いませんか? そうなる前に旦那様はさっさと帰っていただかないといけないんですから、無駄話をする時間はありません」

「いや、それはそうなんだが……」


 まだ納得のいってなさそうなマクス様を宥めるように、メニミさんはローブを探った。

 

「あーその呪いについてなんだけどねー、光精霊からヒントをもらったんだよー」


 小さな字でみっちりなにかが書かれている小さなノートをめくりながら、メニミさんは取り出したペンをくるりと指先で回した。


「光精霊がねー、ベアトリス嬢に絡みついている鎖のようなものが見えるって言うのさー」

「ルクシアがそう言っていましたね。なんのことなのでしょうか」


 私も、確かにルクシアがそう言っているのを聞いたと証言する。私の疑問に、メニミさんは曖昧な笑顔を浮かべる。言い切れるものでもないのだろうか。その表情からは、答えてくれる意思が見えない。


「んー……えーっとね、それで、光精霊は、その鎖が繋がってる方向を、あっち、って言ったんだよねー?」


 メニミさんは小さな手で床を示した。私は絨毯の敷かれたそこを見る。確かに、あの時ルクシアの指は下を向いていたように思える。その場面を見ていなかったコレウスは、確認するようにそれを口に出した。


「下……ですか?」

「そう。下だよー」

「それってつまり、ルミノサリアってことになりますよね」


 黙っていろとも言われていないクララが床を見つめながら呟く。彼女の言う通り、ここアクルエストリアは、ルミノサリアの首都ベリタスの空高い位置に浮いている。鎖の繋がっている先として床を指したということは、それはそのまま地上に繋がっているという意味になるのだろう。


「……メニミ、もう一度。ルクシアが言っていた正確な角度はわかるか?」

「わかるよー」


 あっちの方だねー、と改めて真っ直ぐに指を指して見せるメニミさんの指先を辿るように見たマクス様の眉間にしわが刻まれた。


「それ、明らかに王城の方向じゃないか」

「多分そうだねー。ベアトリス嬢に薬を飲ませたのも第二王子だしさー?」

「ビーとあの王子が繋がってるというのか?」


 不愉快だ、とでも言うようにマクス様は顔をしかめる。そして、私の肩を抱いて自分に引き寄せる。自分のものだと言われているような気になって、胸が高鳴る。

 

「繋がっているというかねー、第二王子の情念みたいなのが絡みついてるらしいんだよねー?」

「情念ってなんですか」

「未練、みたいな? 独占欲っていうよりも、執着……みたいなものだろうって言ってたよー?」


 ゾクッと背筋が冷える。

 ――エミリオ様が執着? 私に?

 いつから、という疑問が沸き起こる。


「エミリオ様は、マクス様が私を無理矢理に妻にしたのだと思っています……ああ、そうです。聖女であるミレーナ様には精神を操るような魔法は効かないから、彼女の発言は事実だと受け止められる、と。私がマクス様と望んで婚姻を結んだのだと、彼女に証言されては困るというような意味合いの発言をなさっていました」

「ああ、公的には、私が無理矢理娶った形であってほしいということだな」

「私に、素直になれ、と……自由にしてあげるなら、彼を信じるように、と」


『僕たちはずっと一緒だ。もうなにも、心配しなくていいんだよ、ビー』


 そうだ。エミリオ様はそう言ったのだ。


「どうして……」

「まあ、今までの話を総合するに、単純な話だ。いや、そんなことだろうというのは最初からわかっていたがな」

「マクス様は、なにかご存じなのですか?」

「うん。私だけが語ったところでビーは信じられないだろうから、証言者を呼ぼうか」


 マクス様はコレウスに鏡を持ってこさせる。そこに呼び出されていたのは、ソフィーだった。

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