第95話

 エミリオ様は、授業が終わるたびに「ビーの顔が見たくてね」とほんの数秒顔を合わせるためだけにやってくる。しかし、彼がそれ以上に話しかけてこようとするとすかさずなんらかのトラブルが発生する、という不可思議な現象が発生していた。

 例えば午前中、廊下でふざけあっていた生徒がよろけて魔法具に触れてしまい、エミリオ様のほんの目と鼻の先でガーディアンが動き出した。

 この時は、たまたま近くにいたアレク先生があっという間にガーディアンを無効化させたので、エミリオ様にも同行していたレオンハルト様にも危険はなかった。

 例えばお昼休み直前には、突然エミリオ様に心酔しているのだという平民出身の男子生徒が話し掛けてきた。

 王族に話しかけるなど恐れ多いと思っている人は多いが、この学院内では生徒は誰もがほぼ平等に扱われる。例え第二王子であっても、勝手に話し掛けるなとは言えない。それゆえ、エミリオ様の背後に控えているオリバー様もなにも言えず、ただ危険のないように警戒したまま会話が終わるのを待っているだけだったようだ。私とミレーナ嬢は、会話のお邪魔になってもいけないので挨拶だけしてその場を後にした。

 お昼は約束通りアレク先生の部屋でミレーナ嬢やソフィーと共に食べた。なので、当然エミリオ様はその場にいない。頼まれたお手伝いというのはただの雑多に集められた書類の分類・整理で、どうして私たちが? とやっぱり首を傾げることになった。まだ手伝ってもらいたいことがあるから数日間はお昼をここで食べて欲しい、とお願いされた私たちに異存はなかったので、昼休みにエミリオ様から絡まれる心配はほとんどしなくていいだろう。

 そして放課後。開口一番お茶に誘ってきたエミリオ様だったけれど、話をしている最中、唐突に窓から石が飛び込んできた。

 庭で補習授業をしていた生徒の土魔法が暴走して、校舎に飛び込んでしまったらしい。しかもエミリオ様が立っている真横の窓ガラスを割って校舎に飛び込んできた。この時は、間一髪エミリオ様の側にいたユリウス様が同じく土魔法をぶつけて相殺させて大事には至らなかった。本来、先生がいない場所で魔法を使うことは禁止されているが、あくまでもエミリオ様の身辺の安全を守るためという名目であれば、彼らは特別な許可のもとに魔法を使役することが出来る。そのおかげで、エミリオ様には傷一つなかった。そうこうしているうちに私は帰らなければいけない時間になったので、まだ話したそうな空気を漂わせているエミリオ様に別れを告げて学院長の部屋に向かった。


「思った以上に頻繁に接触しようとしてきていたな。」


 学院長の部屋に入れば、そこにはもうアッシュの姿があった。予想通り、今日のトラブルはどれも彼の手によって引き起こされたもののようだった。事情は分かっているのですが窓を割るのはやめてもらえますか、と学院長が疲れた顔をしている。


「修理代はアクルエストリアまで請求してくださいませ」

「いえ、それは、その……ああ、お願いします」


 さらさらと書いた請求書を学院長はアッシュに渡す。興味なさそうな顔をしてそれをマントにしまい込もうとする彼の手元を見れば、大きな1枚ガラスのせいだろうか。それなりの額が請求されていた。

 エミリオ様との接触を避けさせるためとは言っても、窓を割るのはちょっとやりすぎだ。エミリオ様たちにも、私を含めた他の生徒たちにも怪我がなかったからいいものの、誰かが小さな擦り傷でも負っていたら大変なことになっていたかもしれない。


「ねえ、アッシュ。あれはやりすぎじゃない? 誰かが怪我をしたかもしれないわ。もっと安全面を重視して」

「誰も怪我していないだろう。」


 そういう問題じゃないのよ、と苦言を呈そうとする私をじっと見て、アッシュは言う。


「姫様は怪我していないな? 俺の守護魔法は完璧だが、アンタが余計なことをしていたらその限りじゃな――」

「大丈夫よ」


 聞いておいて私の返事が信用できなかったのか、彼はぐっと顔を寄せてきて顔やら首やら腕やらを確認しようとする。

 アッシュはどうにも距離感がおかしい。エミリオ様ではないから具合が悪くはならないものの、男性からここまで近付かれるというのも緊張する。寄らないでちょうだい、と鞄で彼との間に物理的な壁を作る。


「……ん?」

「ちっ、近いわ。帰ったらクララたちに確認してもらうから、今そんなにじっくり見ないでちょうだい」

「そうしてくれ。アンタが勝手に傷を作った日には俺の首が飛ぶ。じゃあ、帰るか。」

 

 城に戻れば即座にお風呂。それからメニミさんの講習。余計なことを考える暇などないおかげで帰ってからは比較的いつも通りに過ごせた。

 このまま私が自分の為すべきことをしつつ、状況が改善する方法が見つかるまで耐えればいいだけ。


 と、思っていたのだけど、そう話はうまくいかなかった。

 エミリオ様は隙を見て話しかけてこようとするし、それを妨害するためのアッシュのやり方は学院の建物にダメージを与えるものが多く、学院長は日に日にげっそりしていく。


「アッシュ、もう少し穏便にできない?」

「……無理だ。小さな騒ぎではすぐに治まってしまって、アレが姫様に話し掛ける時間を作ってしまうからな。」

「でも」

「俺は、やれと言われた仕事をやっているだけだ。」


 アッシュは魔導師の塔から派遣されてきている立場なので、使用人扱いとはいえ私の言うことをきく気はないようだ。こんな会話をクララに聞かれたらまた彼女が怒り心頭に発してしまう。学院長の部屋では、他に耳もあってそんなに長いこと会話もできない。なんとかならないかしら、と思っていても、彼を言いくるめることはできなかった。

 学院長から渡される請求書は、今や束のようになってコレウスの手の中にある。流石にコレウスの額にも青筋が見えた気はしたけれど、アッシュの任務は私の身の安全と、私とエミリオ様との接触を避けさせることだ。必要だったと言われれば、少なくとも私自身に怪我はなく、接触も最小限に抑えられている状況に文句を言わないようにと言い含められているようで、怒りを堪えているのは手に取るように明らかだった。

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