第94話

 廊下に出れば、今日はエミリオ様が待ち構えていた。

 いつもならドッと疲れが押し寄せる場面で、私の胸はときめきで高鳴ってきた。この感情は違う、間違いだ、と否定しようとすれば軽い頭痛に襲われる。

 状況を受け入れれば、頭の痛みは少しは楽になるのだろうか。しかし、私にはエミリオ様を愛しく思う自分など認めたくはない。私が本当に好きなのは、彼ではない。そんなことを考えてしまったせいで徐々に強くなる吐き気を気合で抑え、笑顔を作る。


「おはようございます、エミリオ様」


 スカートを軽く持ち上げつつ挨拶をすれば、彼はすぐさま私の側にやってきて顎に手をかけるようにして姿勢を戻させた。


「ビー、そのように短いスカートを持ち上げては、きみの綺麗な脚が余計に皆から注目を集めてしまう。それは、僕だけに見せてくれるものだろう?」


 ゾワッと肌が粟立つ。

 まるで恋人か妻か、恋愛関係にある相手に囁くかのような言葉を耳元に注がれて、首筋が不快感を示す。

 しかし、そんなことを表情に出してはいけない。無言で淑女の微笑みを返せば、彼は満足げに笑って腕を差し出してきた。


「エミリオ様、私はエスコートしていただける立場にございません」

「昨日は倒れた上に早退したじゃないか。顔色が悪いように見えるよ。まだ身体の調子が戻っていないのでは? 歩いている最中に転んだりしないよう、僕を支えにすると良いよ」


 倒れたり早退する羽目になった原因を作っておいて、よくこんな笑顔を浮かべていられるものだ。怒りや呆れを通り越して、その面の皮の厚さにいっそ感動してしまう。


「しかし、エミリオ様にはミレーナ様が……」

「彼女と僕は、なんでもないと伝えたはずだよ。婚約者でも恋人でも、ましてや配偶者でもないんだ。彼女を気にすることはないよ」


 それは、彼の中では事実なのだろう。しかし世間体というものがある。元婚約者と腕を組んで人前など歩けない。変な噂が発生するきっかけを自分たちで提供するような真似は避けなければいけない。

 だが彼はこの国の第二王子であることも事実で、無碍にできないがゆえに答えに詰まる。断りきれずに困惑していると「お姉様!」廊下の向こうからミレーナ嬢が駆けてきた。


「昨日は具合が悪くなって途中で帰られたと聞きました。もう大丈夫なんですか?」

「ええ」

「でも、また顔色がよくないようですね」


 私の手を取って心配そうな顔をするミレーナ嬢と、その後ろから同じような顔で見てくるソフィーに「そうかしら」と心配させないように笑顔を向ける。


「あまりそういう自覚はないのだけど、でも、こんなにも口々に言われてしまうということは……私、そんなに具合が悪そうに見えてしまっているのね。嫌だわ、心配させたいわけではないのに」


 そもそも、今の私の顔色が悪いのだとしたら、その直接的間接的な原因はエミリオ様なのだ。なのに、当の本人までもが、心から心配しているというような態度で接してくる。


「だからビー、遠慮なく僕に掴まってくれて良いと……」

「まあ! 支えが必要なほどなんですか?!」


 エミリオ様の発言を遮れるのは、もはや国王様と王妃様、第一王子のルドヴィクス様を除いたら彼女くらいではないのだろうか。私を気遣うエミリオ様の言葉に驚いた声を出したミレーナ嬢は、私の手をまたぎゅっと握る。


「でしたらわたしが支えになります! 女性の方が、ベアトリスお姉様も気が楽ですよね? 反対側はソフィー様にお願いしましょう。良いですか?」

「ええ、もちろんですわミレーナ様。ベアトリスも、身長差のない方が歩きやすいわよね」

「え、ええ」

「では、わたしたちは先にお姉様と行きますね。エミリオ様とオリバー様はごゆっくり!」


 そう捲したてたミレーナ嬢に支えられて歩き出す。嵐のような勢いでやってきて去っていくミレーナ嬢になにも言い返すことができなかったのか、私に腕を差し出していたエミリオ様は、その姿勢のままぽかんとその場に取り残された。

 ゆっくりと階段をおりながら、ミレーナ様は私の顔を覗き込んでくる。具合が悪いのなら、無理をせずに休めばよかったのに、という彼女に、曖昧に微笑んで答えを誤魔化す。そして、メニミさんからの提案を実行すべく、お願いごとをしてみた。


「ミレーナ様、不躾なお願いなので、無理でしたらそうおっしゃってくださっていいのですけど」

「お姉様がわたしにお願い? え、なんでしょう?」

「しばらくの間、私と行動を共にしていただくことはできますか?」

「へっ?!」


 素っ頓狂な声を出した彼女は、慌てた顔で周囲を見回して口を押さえる。

 上気した顔で私とソフィーを何度も見比べ、自分で自分の頬をつねって「痛いっ」と言いながら笑顔になる。


「夢じゃない……っ。嬉しい、嬉しいです! そんなの喜んでお受けするに決まってるじゃないですかー」

「ありがとうございます」

「もうっ、お姉様とわたし、これでお友達ということに――」

「あ、お友達ではないです」

「んっ、んんっ」


 ついいつもの癖で即座にお友達発言を否定すれば、ミレーナ嬢は頬を引き攣らせながら両手を腰に当てた。


「まあ、良いです、なんでも。ベアトリスお姉様が必要としてくださったというだけで光栄です」

「あ、ベアトリスさん、ミレーナさん、都合よく揃っていますね」


 ふんっ、と鼻息荒く宣言した彼女の声に被るように話しかけられる。階段の下、踊り場に視線を映せば、そこに立っているのはアレク先生だった。

 手ぶらなので、授業に行くために移動していたわけではないようだ。第一、まだ教室に向かうには早い時間だった。


「すみません。おふたりにお手伝いをお願いしたいことがあるので、お昼休みはぼくの部屋に来てください」

「えっと、わたしもですか?」


 ミレーナ嬢は不思議そうな顔で首を傾げる。あまりアレク先生の授業を選択していないから、自分が選ばれる理由がわからなかったのだろう。そういう私も、どうしてそんなことを言われているのかわからない。


「忘れずに来てください。なんなら、昼食もぼくの部屋でとってくれて構いませんよ」

「お姉様と一緒にお昼ですか? なんて素敵な提案なの! お邪魔虫のいないランチなんて最高だわっ」

「まあ、ぼくたちはいますからふたりきりではないですけどね」


 ――一応エミリオ様はこの国の王子様で、王位継承権を持っていらっしゃるのだけど。

 理由は不明だけど、ミレーナ嬢の中で彼の扱いはかなり雑なように思える。本来、到底許される態度ではない。例え本人がいないところであっても、このよう発言は許されるべきものではない。

 そしてこの場において一番問題なのは、ここにいる誰もが、彼女の言葉や態度を咎めないことだろう。

 誰も言わないのなら私が注意すべきなのだろうけど、今の私は、エミリオ様のことを考えると勝手に胸がドキドキしだすのだ。頬が赤くなりそうで、彼を愛しく思ってしまいそうで、そんなこの身体の反応が嫌でならない。矛盾のせいで起きる体調不良を少しでも軽くしようと彼のことを頭の中から追い出そうと必死で、口を挟むどころではなかった。


「それならば、お昼は私が手配しましょう」


 少し下がって話を聞いていたソフィーが手を挙げる。


「アレク先生の分も同じもので大丈夫でしょうか」

「おや、ぼくの分も用意してもらえるんですか? 助かります」

「なにか、食べられないものはありますか?」

「特にないですよ。でも、あまり香辛料の強いものは得意ではないですね。食べられますけど」

「ではそのように手配いたします」


 今からお昼が楽しみですと弾んだ声のミレーナ嬢は、またいつの間にか私の手を握っている。彼女の小さく柔らかな手からは、安心するようなぬくもりが伝わってきていた。

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