第93話

「なぁぁああああっにをッ! してるんですかぁあああ!!!」

「痛い。やめろ。」


 バシバシとなにかを叩く音がする。眠い目を開けて身体を起こすと、ソファーのところでアッシュがクララに叩かれていた。まだ頭が重い。アッシュの掛けてくれた魔法がまだ切れていないのかもしれない。ぼーっとふたりの様子を眺める。


「なにここで寝てるんですか部屋の前までしか許可してませんよっ」

「どうしてアンタの許可を貰わなきゃいけないんだ。俺は警護役として――」

「もうっ、もうっっ!! なにが警護ですか! あなたが一番危険じゃないですか!」

「どこがだ。一番危険なのは王子なんだろう? 俺は依頼されてこの娘を守っているだけで――」

「『この娘』じゃないっ! ベアトリス様と呼びなさいと言ってるでしょうがあぁぁ!」


 朝から大騒ぎだ。正直、かなりやかましい。

 なにをそんなに怒っているのかと思えば、彼らの会話から察するに、私に眠りの魔法を掛けてくれた後、アッシュはそのままソファーのところで一晩を明かしたらしい。

 クララが怒るのも当たり前だろう。いくら警護のためとはいえ、若い男が女主人の寝室で一晩を過ごすなど、少なくともこの国においては誤解を生むも甚だしい行為だ。夜間も私を守るために近くにいる必要があるのであれば、部屋の外、廊下で過ごすようにとクララは彼に指示したらしい。しかし、朝になって私を起こしにやってくれば、そこにアッシュがいた……というよりも、堂々とソファーで横になっていた。

 そんな光景を目にした彼女は激高し、私が寝ているのにも拘わらず朝から大声で彼を非難しているようだった。

 ――それは確かに、良くないわ。

 身体に妙なところはない。もしなにかあったのなら、私はもうここにはいられない。エミリオ様の思惑通りになってしまう。そんなのはアッシュもわかっているだろうから、なにか起こるはずもない。

 のだが、そういう問題ではないのだ。


「なにもしていない。」

「そういう問題じゃないのがどうしてわからないの?!」


 そう、そういう問題ではない。どうも、アッシュはピンときていないようだけど。


「若い男女が一晩同じ部屋で過ごしたという噂話が広まったら、それを聞いた人たちから奥様がどう思われるか……それから、旦那様がどう感じられるかが問題なのッ」

「ここから噂話が漏れるとでも? ここの使用人たちは自分たちの主人の話を外でするような輩なのか? アンタたちが外でベラベラ話さない限り、どこからも噂なんて流れないだろうが。」


 隣近所もない天空城で起きたことなど、下界の連中が察せられる方法などあるか、というアッシュの主張ももっともなのだけど、しかしやっぱりそういう問題でもないのだ。

 まだ怒りに任せて迫ってくるクララを「わかったから黙れ。」と腕で払うようにしたアッシュは、眠る時にマントを外したらしい。袖のない上着から出ている腕は鍛え上げられていて、魔導士とは思えないほどに筋肉質だ。その腕にも、なんらかの紋が一面に入っていた。

 そんな光景を眺めていた私は、聞こえてくる単語と内容にまた例の吐き気に襲われていた。一晩経ったところで、全く状況は変わっていない。あのひとのことを聞かされると、考えると、どうしようもなく胸がムカムカする。


「それから! 奥様の前でそんな肌を露出しないでちょうだい」

「なんでだ。これは俺の部族の正装だ。文句を言われる筋合いはない。」

「なんでもかんでもないのよ。奥様が目のやり場に困るでしょう!」

「困るのなら見なければいい。」

「だから!」


 まだなんだかんだ言ってくるクララに面倒くさそうな顔をして、アッシュはマントを羽織ると私を見た。目が合えば、彼は小さく首を傾ける。


「ああ、姫様、起きたか。」

「姫様?」


 なにその呼び方、と唖然とするクララに、私を指差したアッシュは言う。


「アンタ、ここのお姫様だろ? ベアトリス様なんて長ったらしくて呼んでらいれな――」

「なんて失礼なのあなたは!」 


 またしてもクララの声が高くなる。加えて、それを言うなら姫ではなくて王妃様です! と修正してくれている。しかし、申し訳ないことにその大声を朝から聞かされるのはただでさえ厳しいのに、今私の頭は小さな痛みと違和感を訴えている。吐き気も収まっていない。

 なんとも厄介な術にかかってしまったものだ。こんな状態では、まともに日常生活を送るのも難しいではないか。

 頭がずきずきして、痛い部分に手を当てるようにしながら深く息を吐く。


「クララ、私、頭が痛いの。少し声を落としてちょうだい」

「ベアトリス様……申し訳ありません」


 おはようございます、と改めて言ってきた彼女の声はいつもよりも低く抑えられていて、気を遣ってくれたのが伝わってくる。軽く挨拶をして、ぼーっとしたままほぼ無意識に窓を見る。そこはまだカーテンが閉められていて、外の様子がはっきりと伝わってくるわけではない。なんとなく明るいから、多分晴れているのだろう。

 近くにやってきたクララは、私の肩にショールを掛けるとアッシュの視線から隠すように立った。


「お身体の調子が悪いんですか? 今日は学校はお休みされますか?」

「大丈夫よ」

「でも」

「アンタ、そういえば精神を操る類の魔法を掛けられてたんだったな。」


 またしてもの不躾な発言に、クララはキッと厳しい目を向ける。しかし、睨みつけられてもアッシュに気にする様子はない。来るなと言われているのにベッドサイドにやってくると


「精神に作用するような魔法を二重に掛けられたせいで魔法酔いを起こしたのかもしれないな。頭が痛くて、気持ち悪い。二日酔いみたいな状態になってるんだろ? それは魔法酔いの症状だ。」


 そう言って私の前で腕を左右に開き、なにやら聞いたことのない言葉を唱えて手を打ち合わせた。その瞬間、彼によって起こされた小さな風と共に頭痛は消えていく。


「あら。痛くなくなったわ。ありがとう」

「俺の魔法を解除しただけだ。しかし、この魔法が駄目となると今夜はまた別の手段で――」

「今日からは私たちが一緒にいるので大丈夫ですぅ。アッシュは廊下にいてください。ここに入っちゃいけません」


 さっさと離れなさい、とクララはアッシュを押しのける。なにもしない、というアッシュの言葉に「されて堪りますか」と怒りを抑えた声で言い返したクララは、真っ直ぐ腕を伸ばして部屋の入り口を指差した。


「ベアトリス様はお着換えになります。男性は部屋を出ていってください」

「廊下で待ってる。」

「はやく!」


 アッシュと入れ替わるようにぬるま湯の入ったボウルを持って部屋に入ってきたアミカは、カーテンを開けると空気の入れ替えをするように窓を大きく開く。しばらくその場に立っていた彼女は、少ししてから窓を閉めて戻ってきた。


「さ、ベアトリス様、制服に着替えて登校の準備をしましょう」

「ええ」


 顔を洗って、いつものように髪を整え、制服を身に着ける。手首にいつものブレスレットがないということに、少しだけ違和感を覚えた。

 軽い朝食をクララとアミカ、それから当然のような顔をしてそこに座ったアッシュと共に済ませれば登校の時間になる。「学院長には話を通してありますので、アッシュも本日より同行させていただきます」というコレウスの言葉の通り、アッシュは私の後ろをついてきた。最初に紹介された時のように、顔を隠すようにフードを深くかぶっているので表情は見えない。とはいえ、見えたところで、表情に変化の少なさそうな彼のことだ。常に変わらないのだと思うけど。

 転移魔法陣で学院長の部屋に移動すると、複雑そうな顔の学院長が私の背後を見てこっそり溜息を吐いた。


「話は聞いていますよ」

「今日から姫様の護衛としてしばらく通わせてもらう。俺のことは気にしなくていい。邪魔にならないようにする。」

「ああ……はい……くれぐれも問題だけは起こさないように」

「俺からは、なにもしない。」

「……よろしくおねがいしますよ」


 学院長のこの反応。彼もアッシュのことを認識しているということだろう。

 これは良くも悪くも名が知られている魔導師ということになるのだろうけど、学院長のげんなりした表情を見ると、頼りになると単純に考えていいのかどうか悩ましいところだ。

 ――アッシュってもしかして、有能だけど問題児というタイプなのかしら。

 こっそり見上げると、じろっと見下ろされた。慌てて視線を外せば、背後から「ふっ」と空気の抜けるような音がする。

 ――もしかして、笑われた?

 気になる。でもまた振り返るのも恥ずかしい。


「それでは、失礼いたします」


 礼をしてドアに向かうと、ドアノブに手を掛けたところで背後から覗き込まれた。後ろから腕を伸ばしてきて、ドアに触れている。結果的に私を囲い込むような姿勢になっているのは、学園長からは彼のマントのせいで見えていないと良いのだけど。


「おい。」

「っ?! な、なに?」

「俺がアンタにくっついてると面倒が起きるだろ。これから、姿は隠すが近くにいる。だから、いつも通り安心して過ごせ。」

「……わかったわ」

「助けが必要になったら、俺の名前を口にしろ。」

「ええ」

「絶対だぞ。すぐに駆けつけるから。」


 その言葉を聞いて、瞬時に不快感と吐き気が押し寄せる。片手で口を押えて、もう片方の手でドアに手をつく。呼吸を整えていると、背中を優しく擦られた。


「悪い。変なことを言ったか。」

「大丈夫よ。ごめんなさい……すぐに落ち着くから」

 

 あの時の『彼』を、たった一言で思い出してしまった。頭の片隅によぎっただけでもこんなになってしまうだなんて、想像していたよりもかなり厄介な状況のようだ。

 ――みんな私のためにいろいろと動いてくれているんだから、私が負けてしまっては駄目よ、ベアトリス。しっかりしなさい。

 自分に言い聞かせ、ふぅ、と息を吐いてドアを開ける。部屋を出て後ろを振り返れば、もうアッシュの姿は見えなくなっていた。

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