第89話

 遠い意識の中、かすかに男性の言い争う声が聞こえていたような気がする。


「彼女を返してもらおうか」

「返すだって? それは僕の台詞だ。彼女は元々僕のものだったじゃないか」

「おや。この国には奴隷制度でもあったのか? 人間の所有権を主張できるとは知らなかったな」

「そういう意味じゃない」


 お願いです、争わないでください。

 その一言すらも言葉にならない。ドロドロとした、暗い闇の中に私は沈んでいく。


「……彼女になにをした?」

「楽しくおしゃべりをして、お茶を楽しんだだけさ」

「では、なぜ私の妻は気を失っているのだろうか」

「さあね。貴殿が現れたことに驚いたのではないのかな。彼女は繊細なひとだから」


『ビー』


 私の名前を愛しそうに切なげに呼んだその声は誰のものだったのか。私には、なにもわからなくなっていた。


 次に意識が覚醒してすぐに知覚したのは、見慣れた天井と心配そうに私を見ているクララとアミカだった。


「奥様! ああっ良かったっ」

「旦那様を呼んできます」

「あら……ここは――私、まだ受けなくてはいけない講義があったのに」

「もうっ! そんなのはどうでもいいんです!」


 と怒ったようにクララが言って抱き着いてくる。どうやら私は昼食後、倒れてしまい、自宅へ帰されたようだ。泣かれなければいけないほどに長いこと倒れていたのかと思えば、ほんの2時間程度の話だという。ということは、もう授業は終わってしまっている。

 そういえば、気を失う前にブレスレットが外されたことでマクス様が駆けつけてくれたのだった、と思い出す。あのまま、彼に連れて帰られてしまったということだろう。


「大袈裟よ」

「大袈裟じゃありませんってば! 心配したんですよぅ」


 今にも泣きそうなクララが私を睨んでくる。彼女がこんな表情を私に向けるなんて初めてだ。上半身を起こして、彼女の柔らかな髪を撫でる。


「心配させてしまって、ごめんなさい」

「ビー! 目が覚めたか」


 アミカと共に部屋に入ってきたマクス様はベッドに駆け寄ってくると私を抱き締める。安堵するはずの腕の中で、身体が緊張に強張る。口からは「放してください」などという言葉が出る。


「……ビー?」

「お、奥様? どうなさったんですか? 旦那様になにかされました?」


 彼とクララの戸惑った声。すぐに腕の力を緩めてくれたマクス様に覗き込まれ、私は顔を逸らす。そんなことをしたいわけではないのに、頭と体が彼を拒絶する。

 ――私は、エミリオ様のものだから。 

 違う。それは絶対に違う。私はマクス様の――エミリオ様が、好きだから。

 呼吸が苦しくなる。相反する思考が同時に産まれて気持ちが悪い。胸を押さえて突っ伏す。


「奥様っ、やはり具合が悪いのですか?」

「ん、ううん、大丈夫。でも……ああ、そうじゃなくて」


 色々と限界になって、うっ、とえづいて口を押さえればクララに背中を擦られる。呼吸を整え顔を上げると、視界に飛び込んでくるのはマクス様の顔。それが、今の私にはとても嫌なものに思えてしまって。

 そんなことを感じたいわけではないのに彼が部屋にいることがとても不快で、自分の中で生まれる矛盾に涙があふれてくる。


「ビー……」


 私の涙を拭おうと伸ばされてきた手を払う。本当は縋りつきたいほどなのに、私の口からは「そのように私を呼ばないでください」と冷たい声が出ていた。


「私は、あなたの妻ではありません」

「えっ、奥様……え?!」

「私が愛しているのは、エミ――」


 それ以上はどうしても言葉にしたくなくて、必死で口を閉じる。歯で舌を噛んで、痛みで正気を取り戻そうとする。


「……ああ、わかった」


 マクス様の声は低い。そのまま、彼は踵を返して部屋を出て行ってしまう。

 ――嫌われた?

 ――見捨てられた?

 私が、別の男性の名前を、愛しているといって口にしようとしたから、だから。


「違う、違うんです、マクス様、わたし」


 顔を覆ってしゃくりあげる私の背中を、左右からクララとアミカが撫で擦ってくれる。


「奥様、なにがあったんですか? お辛くなければ、聞かせていただけますか?」

「アミカ……実は今日――」


 昼食時、エミリオ様と同席したこと。その後、ふたりきりにさせられて出されたお茶を飲んだこと。その後から、思考と身体が自分の思うままにならないこと。私の愛している人は、マクス様ではないと思ってしまっていること。

 たどたどしく説明をしていると、クララが怒りの声を上げた。


「まーっ!! あのバカ王子、奥様になにかしたんですね?!」

「王家の方に対して、そのように言うべきではないわ」

「でもっ!」

「はーい、失礼するよー」


 ドアをノックして入ってきたのは、私の召喚魔法の先生。魔導師の塔から派遣されてきているヴァリアン・メニミという小柄な古代魔法のエキスパートだった。


「メニミさん、あら。もうそんな時間ですか?」

「ううんー、マスターから呼び出されたんだよー」


 はいはいごめんねー、と言いながら、メニミさんはクララたちを退けてベッドに腰掛け、私の目をじっと覗いてくる。


「え? あの、なんですか?」

「ちょーっと静かにしててねー?」


 口を閉じれば、メニミさんは私の下瞼を引っ張ったり手首に触れたり、あれやこれやと確かめるような行動をする。なにをされているのかわからず困惑したまま、私はされるがままになっていた。

 メニミさんは、性別はよくわからないし年齢も良くわからない。頭に猫のような耳がついているのだけど、他は人間と同じ見た目をしていて獣人というわけでもないようだ。ぴこぴこと動くことがあるので、アクセサリーというわけでもない。

 正体不明というのが相応しいけれど、マスク様が選ばれた方なので私は信頼して教えを乞うている。

 水色の髪色で、少量の後ろ髪を長く伸ばしてピンクのリボンで結んでいる。猫のような耳も同じ色。大きな猫のようなツリ目は黄色に近い茶色で、白いシャツに、黒いハーフパンツでぶかぶかのブーツをはいて、大き目のローブを引き摺るように羽織るといういつもの格好だった。


「あー、ここを出てから、なにか変なもの飲んだのかい?」

「甘ったるく花の香りのするお茶を飲まれたそうです」


 メニミさんの質問に、私ではなくてアミカが答える。きっとそれだねー、と困り顔になったメニミさんが、部屋の入り口を振り返る。そこには、開いた扉にもたれかかるような格好で、腕を組んでこちらを見ているマクス様の姿があった。


「惚れ薬。間違いないねー」

「魔法ではないのか?」

「魔法、みたいなものだけどー……うーん」

 

 入ってもいいか? と確認されるので、嫌がっている身体を押し留めて頷く。メニミさんの後ろに立ったマクス様は少し身を屈めて確認するように問い掛け始める。


「解毒は?」

「効かないねー」

「解呪」

「そういうのでもないんだよねー」

「心操魔法か」

「近いけど、違うんだー」


 じゃあなんだ、とマクス様は少し苛立ったように言う。


「一般的に流通している程度のただの惚れ薬なら、帰ってきた時に飲ませた薬でもう無効化されてるはずさねー。マスターがどうしてもっていうから持ってきた万能薬……みたいなもんだったからさー、あれは。高いよー、あとでお代はちょうだいするからねー?」

「金の話はコレウスにしろ。ビーが元に戻ったら言い値を出してやる。にしても、だ。ただの惚れ薬ではないのだとしたら、どこから手に入れたんだ。そんな特別な薬」

「いやー、どこからだろうねー」

「お前が流出させたんじゃないだろうな?」

「マスターを敵に回すようなことはしないさー?」


 ――ああ、エミリオ様から惚れ薬を飲まされたから、彼に好意を抱いて、マクス様には嫌悪感を抱くなんてことになってるのね。

 自分の身体に起きていることの原因を理解した私は、しかしどうやら効果を消すのに苦労している様子なのも同時に理解してしまった。

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