第88話

本日二度目の更新になります。こちらを先に開いてしまった方は、87話からご覧ください。


――――――――――――――――――――――


「ああ、やっとここに来てくれたね」


 エミリオ様は、私の正面に座っている。婚約者時代と同じ距離。それに少し安堵する。


「お話を伺いにきただけです。遊びに来たわけでは――」

「オリー、お茶を入れてきてくれるかな。僕と、ビーの分を」


 はい、と頭を下げたオリバー様が部屋を出ていき、エミリオ様と二人で残される。

 エミリオ様は、いつからか護衛として一緒に登校してくれている彼らを、オリー、ユーリ、レオ、と愛称で呼ぶようになっていた。もう長いこと名前で呼んでいたというのに、どうしてこのタイミングで? と疑問に思っていると、ソフィーから「ベアトリスと同じくらいの付き合いの長さの彼らも愛称で呼んでいるのだから、ベアトリスも愛称で呼んで良い」という理論なのだと聞かされて、眩暈を感じたのはここだけの話にしておきたい。

 談話室にはソファーがいくつも置かれていて、壁一面に本棚まである。ちらっと見る限り、噂に聞いているエミリオ様とミレーナ嬢の適正に応じた本が置かれているようだった。この様子では、自習などで図書館に行く必要もないだろう。

 他の人の耳を気にしなくても良いのだから、どこにどのような耳があるかもわからない王宮よりも密談しやすい環境と言えなくもなかった。周囲に音を伝えないようにする魔導具はあるが、その影響を打ち消す能力のある魔導師が近くにいたなら話は聞かれてしまう。

 そんなことを思っていると、すぐにお茶を持ったオリバー様が帰ってくる。エミリオ様と私の前にカップを置いた彼は、所用によりしばらく部屋を離れる、と言い出した。

 二人きりで残されるのは困る。顔を上げれば、オリバー様は


「外に警備のものが立っております。許可証のないものを感知するための魔法具も動いていますので、ご安心ください」


 とにこやかに言って本当に部屋を出ていってしまい、結局、二人きりで残されてしまった。

 この部屋に来る前、ミレーナ嬢とソフィーは、次の時間は神聖魔法の鍛錬があると申し訳なさそうな顔をした。なるべく早く終わらせますと言ってミレーナ嬢は駆け足で鍛錬場へ向かい、その後ろを慌てた様子でソフィーが追いかけた。レオンハルト様も彼女たちについていってしまった。ユリウス様は、2日ほど前からお父上のお仕事のお手伝いだとかで王都から離れている。つまり、今この談話室に入れる人は他にいないということだった。


「緊張しなくてもいいよ」

 

 エミリオ様はカップを手に取ろうとして「もしかして、これも疑われているかな?」と私の前にあるカップを取った。


「変なものが入れられているかもしれない、なんて思われたくないからね。交換しようか」

「そんなことは、思っておりません」

「まあ、僕が指示したのではなくても、オリーが気を回してなにかしているかもしれないだろう? だから、こっちを飲むといいよ」


 どんな気を回すというのかしら。

 目の前に置かれた、最初はエミリオ様の前にあったカップを見つめる。エミリオ様はすぐに口をつけて「これはね」と有名店の新作だという話をしだす。


「エミリオ様」


 言葉を遮らないようにタイミングを見計らって声を掛ける。


「先ほどのお話の続きを、お聞かせ願えますか?」

「聖女と王族の婚姻についてだね。あれ、まるで法で制定されているかのようにのように言われているけれど、実際にそのような決まりごとが明文化されているわけではないんだよ」

「そうなのですか?」

「まあ、聖女と王族が結婚した時期、国が栄えているのは本当。だから、父上としても僕とミレーナが結婚すれば良いと思っているだろうね」


 だとしたら、やはり二人は事実上の婚約者同士なのでは?


「ただ。これまでの聖女とその当時の王族の誰かは、誰かから強要されて結婚しているわけじゃないんだ」

「……もしかして」

「多分、ビーが考えている通りだよ」


 言ってごらんよ、と促され、私はそれを口にする。


「これまでの聖女様と王家の方々は、恋をして結婚なさっているのですか?」

「そう。みんな、自分たちから望んで結婚しているんだ。いわゆる、恋愛結婚だね。一目見た瞬間から、電撃が走ったかのように恋に落ちるんだって」

「知りませんでした」

「これは、王家と教会のトップしか知らない話だからね」


 でも、ということは?

 今のエミリオ様とミレーナ嬢は、どう見ても恋愛関係にあるようには見えない。ミレーナ嬢も、彼を『仲良し』とは表現しても、恋をしているようには見えない。とても思いあがったことを言ってしまうのなら、彼女はエミリオ様より私に対して向けてくれている好意の方が大きいように見える。


「エミリオ様とミレーナ様はどうだったのですか?」

「なーんにも。びっくりするくらい、なにもなかった。聖女様と顔を合わせたら、彼女に恋してしまうのだろうと思っていたから、それはそれは驚いたよ」

「もし、王族のどなたかと聖女様が恋愛関係にならなかった時は、どうなるのですか?」

「そこなんだよね。形式上、結婚することは簡単だよ。でもそこに心が伴っていなかった場合、国にもたらされるはずの繁栄は本当に訪れるのか……って部分がわからないから、婚約するにできない状態なんだよ、僕たち。僕にもミレーナにも、利用価値はあるからね。不確定なもののために安易に結婚させるわけにもいかないんだろうね」


 エミリオ様は優雅にカップを口に運ぶ。飲まないの? と視線で尋ねられる。

 出されたお茶に手を付けないのは失礼だろう。彼を、疑っているのだと態度で示してしまうことになる。ここは学院の中でも特殊な場所だろうから、不敬罪が成立してしまうかもしれない。

 仕方なく、私もカップに手を伸ばす。そっと湯気を吸い込めば、花のような、キャンディのような甘い香りがする。今期の新作で花と砕いたキャンディの入っている見た目も美しいお茶だという話だったから、このような香りがするのだろう。 

 一口飲めば、口の中にも花の香りとほのかな甘みが広がる。


「どうしても僕たちに恋に落ちてもらわないと困るんだろうね。ミレーナが現れた直後は、僕たちの食事に惚れ薬が混入させられたりしていてね。毒見されたものしか出てこないんだから、もう仕込んだのは完全に身内ってことになるんだよ。困ったものだよね」


 エミリオ様はカップの中身を飲み干す。私は、続いてもう一口を飲み込む。


「でもミレーナは聖女で、薬物も呪物も効かない。彼女の気持ちを操ることはできなかった」


 マクス様であってもできなかったのだから、いくら王宮魔導師といえどミレーナ嬢を操ることなんてできるはずがない。こくり、と飲み込んだお茶は、するりと喉を滑り落ちていく。


「彼女は、ビーのことが好きみたいだね」

「恋愛ではないと思いますけれど、好意を向けてくださっているのは存じております」

「うん、ミレーナはきみの味方だ。どう考えたってきみはシルヴェニア卿に無理矢理結婚させられているのに、お互いに望んで結婚したんだ、ビーはシルヴェニア卿に操られてはいない、だなんて言い出したんだ。術が掛からないことが知られている彼女が言い出したら、それが事実になってしまうじゃないか」

 

 お互いに了承の上で結婚したのは事実だ。その時に愛し合っていたわけではないけれど、今の私たちは――

 その瞬間、ゾクッと背中が凍った。

 胸の奥から、妙な感情がこみあげてくる。


 ――エミリオ様が、愛しい。


 なに、これ。

 胸の奥が疼く。頭の芯では違うと否定しているのに、身体が勝手にそう認識する。エミリオ様こそ、私の愛している人なのだと思い込む。


「ね、ちゃんと素直にしてあげないと。大丈夫、必ず僕が助けてあげるから。きみを自由にしてあげる。だからビーは、僕だけを信じていればいい。頼ってくれていいんだよ」


 エミリオ様は隣に腰掛けてきて、手を握ってくる。嫌だと思っているのに、彼の手を握り返している。やめてください、という言葉は出てこなくて「エミリオ様」と返す自分の声が甘くて吐き気がする。


「僕たちはずっと一緒だ」

「はい」

「もうなにも、心配しなくていいんだよ、ビー」


 エミリオ様の唇が、手の甲に押し付けられる。鳥肌が立っているのに、胸はときめいている。嫌だ。嫌だ。なんとか、少しでも身体が動いてくれたら。

 ――マクス様……ッ!

 ビー、と囁いてエミリオ様が近付いてくる。駄目だ、このままでは。


「今まで、ちゃんと言えていなかったね。僕の言葉を待っていたのだろうに、ずっとそれを口にできていなかった」

「エミリオ様、わたしも」


 心にも思っていないことが、口からこぼれそうになる。違う、こんなことは言いたくない。必死で奥歯を噛み締める。必死で抵抗していると、わずかに腕を持ち上げられた。しかし、その手はあっさりエミリオ様に抑えられてしまう。


「どうしたのかな? ビーから僕に触れたくなった?」


 くすくすと笑いながら私の手首を握りこんだ彼は、そこにつけられているブレスレットに気付いた。


「これは……シルヴェニア卿から貰ったのかな」


 冷たい瞳で、エミリオ様はブレスレットを見下ろす。


「外してしまおうね。こんなもの」

「……はい」

「他の男から受け取ったものなんて、義理堅く身につけなくていいからね」

「はい」


 カチッと金具の外れる音。同時に巻き起こる突風。カップが浮き上がり、落ちて割れる。本棚の書物が宙を舞う。


「なッ?! なんだ一体――」

「私の妻に、気安く触れないでいただきたい」

「お前は……あの時の」


 慣れた香りに抱かれて、ふっ、と私の意識は闇に沈んだ。

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