第86話

 クイーンの、消毒という名の舐めや齧り行為は、マクス様の香りや気配に関しては行われることが無くなった。しかし、学校帰りには毎日、即お風呂に直行しなければいけないほどに舐めまわされる。


「第二王子の匂いのせいですよねぇ。以前より臭……濃密な臭いになっているせいで、クイーンも気合を入れて舐めてますよね」

「そんな気合、必要ないわ」

「奥様? クイーンは意味のないことはしないので、彼女のしたいようにさせるのが得策ですよぉ?」


 服を用意してくれているクララの声を背に、アミカは無言で丁寧に髪を洗ってくれている。本当はごしごしと擦りたいようなのだけど、私の髪が痛んではいけないと優しく扱ってくれているせいで、思うようにクイーンの唾液が取れないでいるようだ。


「今日も見事にべたべたですねぇ。ここまでひどいと、かなり念入りに洗わないとですね。あとでオイルを塗らないと髪が乾燥してしまいそうだし……」

「これ、本当に唾液でしょうか」


 アミカはぼそっと呟く。

 どうも最近のものは最初の頃と比べて粘度が高く、ただの唾液のようだとは思えない、と彼女は言う。触ってみてから「うーん、確かに?」とクララは私の髪についている透明のそれを空いていた小瓶に少量取ってどこかに持って行ってしまった。


「奥様、少しだけ強く引っ張ってしまうかもしれません」

「大丈夫よ」


 時間がない、ということはアミカもわかっている。申し訳ありません、と言いながらアミカが櫛を手にして、力を入れてそれをこそげ取りだした。

 髪を洗ってもらっている間、特にすることもない私の思考は、今日の昼休みに飛ぶ。


 今日も今日とて、エミリオ様はしつこかった。

 お兄さま曰くの『腐ってもこの国の第二王子』。無碍に扱うことなど絶対に出来ない。私の態度ひとつで、実家やマクス様に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。心からの笑顔で対応する必要まではないと思っているけれど、会話を無視はできない。

 あの日以来食堂で昼食を取ることにしたらしいエミリオ様から逃げることは、なかなか難しくなっていた。食事の時間は決まっているのだから、どうしても顔を合わせてしまう。非常に迷惑だった。

 エミリオ様は護衛として最低2名を引き連れて食堂にやってくる。護衛の彼らは生徒ではないのだから、食堂で食事を取ることはできない。かといって、後ろに立たれているだけというのも他の生徒の食欲に影響を及ぼしていた。

 彼らが毎日のように食堂で食べるということになれば、作り置きよりも出来立ての料理が良いだろうと王宮から料理人が派遣されてくることになり、専用の食材までが持ち込まれ……護衛の御三方も含めたエミリオ様たちのお食事として用意された食事の残りは、特別メニューとして食堂で提供されることになった。

 普段は食べられないような食材や、珍しい宮廷料理。家柄に関係なく、いや、教職員までも含めて、それはそれは人気なのだった。


 胃袋を掴んだというのかなんというのか、一時期遠巻きにされているようだったエミリオ様は、生徒たちからも受け入れられるようになっていた。

 入学当初は、彼らとの顔繫ぎという意図で近寄る人たちや、家からそのような指示を受けていた人もいたようだ。けれど、後に婚姻関係を結ぶ予定の聖女の前で元婚約者、しかも既に別の男性の妻となった女性に言い寄っている姿を多くの人に目撃されていたことで、評判を下げつつあった。

 しかし、私がマクス様に騙されているのではないか、という噂話がどこからか出回り始めた。エミリオ様を迷惑がっている私の態度を、あれは他人の目がある時だけの態度と思う人もいたようだ。

 エミリオ様は、自ら失墜させかけていたご自分の人気を、当初からまったく変わっていないように思える振る舞いのまま取り戻しつつあった。


『エミリオ様と聖女ミレーナ様は運命の愛で結ばれている』派からすれば「いくら元婚約者が不幸な婚姻を結ばされてるとはいえ、エミリオ様はお優しすぎる。昔の女など無視すればいいものを。そんなエミリオ様を慮って、一歩下がって状況を見守っている聖女様のお心のなんと清らかなこと」という見方が大半を占めているらしい。

 また、普段は反対の立場を取る『シルヴェニア卿とベアトリス嬢の真実の愛』派の中からも「エミリオ様が横恋慕しているのは確か。しかし、あの一途さを見ていると、彼もご自身の立場があって望まずに引き裂かれたのだろうと思えて痛々しい」などという意見が出ているとか。

 どちらも違う。

 多くの人が『エミリオ様はベアトリス嬢への想いを捨てきれないでいる、国の法律に縛られた哀れな男』なのではないかと考え出しているのは何故なのか。

 学院内での話は尾ひれがついて世間に広まり、ロマンティックな物語として多く語られているようだ。社交界の噂はアナベルが、市井の噂話はサリスさんが詳細を教えてくれている状態で、私の知らない私達に関する新しいロマンスで持ちきりになっていると聞くたびに頭が痛くなった。


「どうしてそうなるのかしら。そろそろその話題には飽きてくれてもいいのに」


 げんなりする私に、アナベルも溜息を吐く。


「……ベアトリスは興味がないかもしれませんけれども、他人の恋愛事情というのは人によっては最も楽しい話題ですのよ。しかもその登場人物が、長らく待ち望まれていた聖女様と麗しの王子様、その王子様に捨てられた公爵令嬢に恋する謎の多い美貌の辺境伯なのですもの。そのような趣味の方々からしたら、興味関心しかありませんわね」

「マクス様が美貌の辺境伯だという話は、どこから出ているの?」


 彼は、夜会には滅多に顔を出さない。その時も、どのような姿を取っているかはわからず、王家から授かったという指輪で身分を証明しているとお父様から聞いている。


「美形のミステリアスな年上男性の方が、絵になるではありませんか」

「それだけ?」

「それだけですわね」


 どうしてそうなるの、と顔を覆う。


「これで、マクス様が、美形でなかったら……どんな噂を流されるのかしら……」

「あら。そうなんですの?」


 顔を覗き込まれる気配。パッと顔を上げた私は、真顔で答える。


「いいえ。この世のものとは思えないほどにお美しいわ。何者とも比べられないほどだわ」

「あら。」


 そうですのね、とにんまり笑ったアナベルは口元を押さえた。


 などという会話を現実逃避に思い出していると、今日も強引に私とアナベルが座っているテーブルに同席してきたエミリオ様は、正面から身を乗り出してきた。


「ビー、少し顔色が悪いようだけど……そんなに悩み事が多いのかい? 可哀想に」

「ッ!?」


 頬にかかっていた髪を指先で掬い上げられ、強烈な不快感を覚えた私は身体を反らして避けようとする。しかし、食堂の席では完全に避けきることはできなくて、驚いた拍子に顔を庇うように持ち上げた手を握られてしまう。

 可哀想だ、とまた繰り返して、彼は私の手に頬を摺り寄せようとする。

 ――ミレーナ様!

 助けてくれても良いのでは? とエミリオ様の隣に座っているミレーナ嬢に視線を向けて助けを求めてみるが、彼女は食事に夢中でこちらに気付いてくれない。


「エミリオ殿下」

「そんな言い方はやめて欲しいと何度も言っているよ、ビー。僕ときみの仲じゃないか」


 どんな仲ですか、と聞き返した日には、いつのことかもわからない幼い日の話をされてしまう。

 幼少期に手を取り合って庭園を走り回っていたこと、いたずらをして叱られたこと、初めての夜会のドレスは、エミリオ様が一緒に選んでくださったこと。

 どれもあったことだ。彼の妄想ではない。しかし、それは幼い頃の話で今は立場が違うのです、という私の言葉は、彼には聞こえていないようだった。

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