第83話

 翌朝、目覚めた私と視線の合ったマクス様は「よく眠れたかい?」と言いながら額にキスをしてきた。


「はい。……あら? もしかして、マクス様は寝不足ですか?」


 彼の温かな腕の中でその顔を見上げれば少し疲れているようで、大丈夫だよ、と告げる表情は気怠げだ。


「ビーこそ、疲れてはいない?」


 頬に唇を落としたマクス様の顔が、耳元に近付く。はむ、と耳朶を唇で挟まれると、変な声が出てしまう。


「ふぁ……っ」

「ははッ、本当に可愛いな、私の妻は」

「もう、お戯れはおやめになってください。マクス様、本当に昨晩は休めているのですか?」


 明らかに眠れていないのでは?

 寝起きにしては疲れている顔の彼を見て再び問うが、彼は曖昧に笑って誤魔化すばかりだ。ちゃんと話を聞こうと思ったところで、ヌッと出てきた影に会話を邪魔された。


「……おはようございます」


 振り返って、挨拶をする。そこには、真っ白い大きな顔があった。

 朝の挨拶に来てくれるクイーンが、今日もベッド脇から私を――今朝はマクス様と私を覗いている。ぶるっ、と鼻を鳴らしたクイーンは、非常に不機嫌そうだ。彼女がじとーっと見ているのはマクス様。当のマクス様は、見せつけるように私を抱きしめて


「なんだ。文句でもあるのか? 私が自分の妻を抱いて寝ても、なんの問題もないだろうに」


 とクイーンと張り合うようなことを言い出す。私の匂いを嗅いだクイーンは、またしても気にくわないと言いたげに鼻を鳴らして私に鼻先を擦りつけようとした。


「わーっ! 駄目です駄目です! やめてくださいクイーン!」


 バン! とけたたましい音を立ててドアを開けたクララが走り込んでくる。クイーンとベッドの間に強引に身体をねじりこんで、両腕を広げる。


「消毒は駄目です! 今からお風呂に入らなくちゃいけないとなると、朝ご飯も食べられないし、学校にも遅れてしまいます」

「こちらで浄化魔法をかけますので、それで納得してくださいませんか」


 クララと、あとから部屋に入ってきてドアを閉めたアミカから懇願されたクイーンは、少し気に食わなさそうな顔を見せたが、私に頭を擦り付けただけで囓ったり舐めたりするのはやめてくれた。

 お気遣いありがとうございます、と起き上がってクイーンの首を抱くと、背中全体に温かな体温を感じた。私と同時に身体を起こしたらしいマクス様が、背後から私を抱いている。


「ビー、私には?」


 肩に顎を乗せるようにして、後ろから覗き込んできている。朝からこんな距離感でいるのを人に見られているというのは、まだ恥ずかしい。そっと彼の腕から逃げると残念そうな顔をされる。


「マクス様、みんなの前では……」

「夫婦なのだから、恥ずかしがることはないだろう?」


 さぁ、と腕を広げるマクス様だったが「女性の準備には時間がかかります! お着換えの時間がなくなりますから、旦那様は、はい! ご自分のお仕度をしてくださいっ」と毅然とした態度のクララに部屋を追い出された。それはもう無遠慮に。

 廊下からは、誰が主人だかわかっているのか? という声が聞こえていたけれど、すぐにそれも聞こえなくなる。


「コレウスさんに回収されましたね」

「奥様、まずは浄化魔法を掛けさせていただきますね。必要ないとは思うんですけど、クイーンが登校前に舐めに来ると大事になるので」


 クララはそう言って、浄化魔法をかけてくれる。なんのために? と尋ねれば、クイーンからすれば、マクス様の匂いが強いのが気に入らないのだろう、ということだった。

 指摘された通り、一晩中抱き締められていたせいで彼の香りが移ってしまっていたようだ。確かに、人間の私でも夜着から彼の香りが漂っているのがわかる。クイーンやクララたちからしたら、もっと強く香っているのかもしれない。

 ――私はこのままでも良いのだけど。

 ぼんやり思っていると、明るい表情のクララと目が合った。


「奥様、おめでとうございますっ」

「おめでとうございます」

「え? えぇ、ありがとう……?」


 なんだかわからないままに返事をすれば、鼻歌混じりのクララは私の夜着を脱がせて鎖骨の下を見て「まぁまぁ旦那様ったら!」と更に笑顔を深める。しかしすぐに、ベッドを整えていたアミカが困惑した様子でシーツを抱えてやってくる。


「奥様、もしかして――なにもなかったのでしょうか」

「え?!」


 どういうことかと聞き返したクララに、絶対にそうだ、と確信したようにアミカは耳打ちする。驚いたクララがとんでもない形相で私を見る。なにもなかったんですか? と視線で問われた私も困惑する。


「昨晩は、お隣の部屋からベッドとソファが撤去されてしまったマクス様が、ここでお休みになったわよ?」

「眠っただけですか?」

「ええ」


 うわぁ、とまたしてもじっとりした視線になるクララとそれを諫めるアミカだったが、そんな彼女たちをよそに私は昨晩のことを思い出していた。




 胸に刻まれた紋についての話を聞いた後、マクス様は私を抱き上げたまま、胸元に顔を埋めていた。


「ビー、私は――」


 ――これは、そういうこと、よね。

 彼の様子からして、完全にその気になっているのだろう。それを拒絶するつもりはない。しかし、その時私は思い出したのだ。


『それに、エルフのそういう行為は――長いからな。ビーの体力ではついてこられないかもしれない』


 いつかのマクス様の言葉。

 行為が長時間に至ることによる体力面での心配は、アミカの加護のおかげで少しは減っているだろう。しかし、時間についてはどうにもならない。エルフ族の言う『時間がかかる』が一体どれくらいを表しているのかはわからないけれど、今日この時間から……と考えると。

 ――もしかしたら翌日に響くのではないかしら。

 マクス様が、自分本位なことをするとも思えない。丁寧に、私を怖がらせないように、と扱ってくれるのなら、人間同士のものであっても時間がかかりそうだ、と想像できた。だとしたら、睡眠不足で授業を受けることになってしまう。

 魔法に関する授業は、普通の勉学とは違って強い集中力と精神力を必要とする。一瞬の気の緩みが、大事故に繋がる。体調を整えることも、魔導師にとっては重要なことだった。


「マクス様」

「ビー」


 私を見上げている彼を見返せば、とろけたような顔で名前を呼ばれる。私は彼に頬笑みかけ、顔を近付けてくるマクス様に告げる。


「今日は、やめましょう」

「……ん……?」


 マクス様の表情が強張る。


「エルフの行為は、時間がかかるのですよね?」

「……ん、まあ……」

「でしたら、明日は学校があるので、できません」

「……できません……」


 聞こえた言葉を繰り返したマクス様は、私を抱き上げた姿勢のままごろりと横になった。大きな溜息を吐いてはいるが、しかしそれでも私の意思を尊重してくれるようだ。


「ああ、いや、そうか。そうだな。あなたは勉強をしなければいけないのだし、それを勧めたのは私だ。体調が万全ではない状態で、魔法の訓練などできない。わかっている。うん、今日は、無理か」


 ぶつぶつ言いながらもそれ以上手を出そうとしてこない彼は、私を抱き締めたまま、なんとか眠りにつこうとしているように思えた。

 ――こういう時、男性は辛いのかしら。

 私自身が女である上に、知識も経験も不足していて、正直なところどうなのかわからない。けれど、あのマクス様が溜息を押し殺せずにいるのだ。きっと憂鬱な事態ではあるのだろう。

 私は、彼の身体に手を回して自分から抱き着く。


「うん? どうした?」


 優しい声で頭を撫でてくれるマクス様に、私は小さな声で言う。


「今日はできません。が、ですから……翌日が休みの日、でしたら……」

「…………」

「なので、次の」

「っ!!」


 無言だったマクス様に具体的な日付を告げようとすれば、彼は勢いよく身体を起こした。何事? と驚いている私をよそに、彼は立ち上がると大股に自分の部屋に戻ろうとする。


「マクス様、そちらに寝具はありませんわ」

「あー……、うん、あちらで眠るわけではないよ。少し思い出したことがあるから、終わらせたらすぐに戻る。あなたは先に寝ていて構わない」

「本当に戻っていらっしゃいますか?」

「ああ」


 おやすみ、と言いながらこちらを振り返りもせずに彼は部屋のドアを開ける。

 ――あら? 鍵がかかっているのではなかったかしら。

 どうして簡単に開いたのだろう。ぼーっと彼の後ろ姿を見送った私は、いろんなことがあったせいで気疲れしていたのだろう。彼を待っているつもりだったのに、そのうちに目蓋が重くなって眠りに落ちてしまった。眠りの途中、隣に潜り込んできたマクス様にまた抱き寄せられ、何度かキスされたのを感じたような気がしたのだけど、あれが夢だったのか現実だったのかはわからない。


 そして朝。

 隣でマクス様が目を閉じていたので、ちゃんと戻ってきてくれたのだと安心した。


「そうだわ。今日からはマクス様もこちらでお休みになることになったから、その用意をお願いね」

「はい」

「では奥様、朝食に参りましょう」


 考え事をしているうちに身支度は整っている。朝食の席につけば、マクス様は欠伸を噛み殺していた。コレウスが「旦那様」と小言を言うような口調で話し掛けている。

 いつものように落ち着いた食事の時間が過ぎ、学院へ行くために鞄を持って城を出る。玄関まで見送ってくれたマクス様は、召喚魔法についてはアレク先生に伝えておく、と言って手を振った。


「では、行ってまいります」

「ああ、行っておいで。気を付けて」


 毎朝のように転移魔法陣に乗った私は、学院長の部屋に着くと同時に「お姉様! お待ちしてましたっ」というミレーナ嬢の声に出迎えられた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る