第76話

 かれこれ5分近く夫に抱きしめられたまま、心臓の高鳴りは一切落ち着く様子がなくて、呼吸もままならなくなった私は目の前がくらくらしてくる。


「マクス様、あの、少し放して――」

「ああ、心地良くてつい甘えっぱなしになってしまった。はははっ、なにやら気が抜けたらおなかがすいてきたな」


 恥ずかしそうな様子でおなかをさすりながら笑ったマクス様を見て、傍らのテーブルに置いてあるベルを鳴らせばすぐにクララとアミカが入ってくる。


「はい、お呼びでしょうか」

「マクス様になにか軽くつまめるものを持って来てくれるかしら?」

「それからワインも」

「はい!」


 私たちを見て満面の笑みになったクララはお辞儀をするとアミカと共に部屋を出ていく。

 すぐにトレーを持って帰ってきたところを見ると、キーブスも夜中に主人が空腹を訴えるのではないかと夜食を用意してくれていたようだった。


「ところで奥様?」


 マクス様が手酌でワインを飲みだしたのを横目に、少し身を屈めたクララが真面目な顔をして囁きかけてくる。


「もうガツンと言ってやったんですか?」

「まだ、だけど」

「ダメですよ、こういうのは時間を置かずにその場でガツンと言ってやらないと」


 またもや強く拳を握ってくる彼女だが、その仕草込みで言われると実力行使込みでやれと言われているようで、返答のしようがない。曖昧な笑みを浮かべる私に


「時間が経つと、なにについて言われているのかわからなくなったり、なんでその時に言わなかった? ってなったりするんですよ。だから今言わないとダメです。旦那様、こういうことには鈍いんですから」


 クララは、今がチャンスです、と吹っ掛けてくる。そういうのはやはり私にはちょっと難しいかもしれない、と断ろうとひそひそやっていると、マクス様に気付かれてしまった。彼は私の肩に手を置くと、軽く引き寄せてクララから離そうとする。


「こらこら、ビーを困らせるんじゃないよ」

「旦那様のせいですよ」

「私か? 何故」

「旦那様が全部いけません」


 解せない、という顔のマクス様に、クララは指を突きつける。


「奥様! 今です!」

「えぇー……」

「今! ご自分のお気持ちをぶつける時です!」

「そんな」

「奥様」


 アミカの静かな声に、助けが来たと救われた気になって彼女を見れば、しかしあろうことかアミカまで拳を握って「やってください」と真面目な顔で言ってくるではないか。逃げ場がない。メイドふたりから、主人に対して抗議するように言われてしまっている。

 私がなにをした、と不服そうな顔をするマクス様を振り返れば、彼は「うん?」と小首を傾げる。そこにさっきまでの思い悩んで沈んでいた様子はなくて安心する。


「奥様にあんなお顔をさせておいて、なにが『私が守る』なんですか。奥様を傷つけてるのは旦那様じゃないですか」


 ぷりぷりしているクララの言葉に、私も彼女たちを心配させてしまっていたのだと思い至る。私がマクス様の様子に胸が痛んだのと同じように、クララやアミカも、私を見て気を揉んでくれていたのだろう。

 ――そうね。自分の気持ちを、自分の言葉でちゃんとお伝えしなくては。

 姿勢を正せば、まだクララたちから文句を言われていたマクス様は辟易したように肩を竦める。


「ビー、あの子たちはなにを言って――」

「私、とても嫌でした」

「ビー?」


 意を決して伝えると、マクス様も私の真剣な様子につられてかグラスを置いて姿勢を正した。


「マクス様が、ミレーナ様に興味があるとおっしゃった時、彼女の目を確かめようと、お顔を近付けてお話されていた時、とても嫌だったんです。子供のようで恥ずかしいのですけど、私――」


 そこで、私は言葉を途切らせる。

 なぜなら、マクス様が顔を手で覆って天井を仰いでしまったから。

 なにやら唸っていたマクス様は、顔を隠したまま動かなくなってしまう。


「それ……は、嫉妬してしまった、という意味だと捉えてもいいのか……?」


 唸るように低い声色で呟かれた声は独り言のようにも聞こえたけど、自分に向けられたものなのだと判断して「はい」と答える。そう答えた私の顔は、余りにも幼い嫉妬が恥ずかしくて熱くなっている。


「妻であるのに、そんな余裕もなくてとてもお恥ずかしいのですけど、胸が痛くて苦しくて、嫌だ、と思ってしまって」

「ああ……」


 マクス様はまた低く唸る。


「私、以外にその……あのような距離でお話になるのは……」


 返事がないと不安になってくる。言葉が途切れ途切れになる私の視界の隅には『奥様、頑張ってください』というように両手を握り締めて応援してくれているクララとアミカがいる。いや、クララはそのまま一発行ってしまって良いんですよ、という風に片方の拳をちょっとだけ高く上げて見せてくる。


「今後は、あのようなことはやめていただけると、その……」

「はぁ……」


 溜息を吐かれて、ビクンッと飛び跳ねてしまう。さすがに子供っぽかっただろうか。呆れられただろうか。やっぱり、もっと彼の妻として堂々としていられるような女性がお好みだろうか。

 またしても不安になる私の身体は、一瞬でマクス様に抱きすくめられる。


「すまないビー。あなたを不安にさせるつもりなどなくて、いや、それ以上に、他の女性に目移りすることなどないと、きちんと伝えておくべきだった」

「いえ、素敵な方は多いですから、マクス様が惹かれてしまうのもわかるのです。でもせめて、私の前ではあのような言動は避けていただけると嬉し」

「ない!」

「へ?」


 私の身体を引きはがしたマクス様に両肩を強く掴まれていて、少し痛い。


「そんなことは、絶対にない。他の女性に心惹かれるなんてこと、あるわけがないじゃないか」

「でも」

「あなたを妻として迎えているのに、他のひとに目移りなど」


 そう言うマクス様の言葉に、なるほど、と納得する。契約結婚している2年間だけは、妻である私に操を立ててくれようと言っているのだ。なるほど、と納得して、彼の気遣いに感謝する。


「ありがとうございます」

「私も、気遣いが足りていなかった。確かに、嫌だろうな。ビーがほかの男……だけではなくて、ほかの人間や他の生物に顔を寄せる場面だなんて、想像するだけでも嫌だ。そもそも、ミレーナ嬢がビーと額を合わせているのを見て苛立ったのは私だというのに」


 自分のしたことを思い出したのか、マクス様は一瞬項垂れたが、すぐに顔を上げると満足そうな顔になる。


「しかし、ビーがそのように思ってくれるのは嬉しいものだな」

「旦那様、反省が足りません」

「したした。十分反省した」

「しているように見えませんが」


 またグラスを取ってワインを飲みだしたマクス様に非難の視線が集まる。しかし、そんなものを気にしない彼は「ああそうだ。昼にアレクサンダーから言われた件だが」と突如話を変えてきた。

 誤魔化されたような気がしなくもないが、今日は確認しておかなければいけないことが山とあるのだった。その話もある程度しておかねば、とこちらも気持ちを切り替える。


「アレク先生から言われたというのは、召喚魔法のお話でしょうか」

「ああ。あれなんだが、多分ビーはアミカと契約しているからなんの問題もなく安全に使いこなせると思うぞ」

「私ですか?」


 自分の名前が出てきたことに驚くアミカと私を順に見て、マクス様は私の通学用の鞄から石板を持ってくるようにクララに命じた。

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