第75話
なにもしていません、と無表情に返したコレウスに、マクス様は疑わしそうな表情を向ける。
「しかし、ビーの表情が強張っているようだが?」
「そうでしょうか」
「お前、まさかビーに失礼な物言いしたんじゃないのか」
「奥様に対して失礼なことをするわけがございません」
なにを言われても動じる様子はないコレウスは、露骨に嫌そうな顔になったマクス様に「……それは、私には『する』という意味だと受け取ってもいいのか?」と聞かれても
「まさかそんな、旦那様に対して命知らずな」
と答えはするが、その態度は慇懃無礼と表現するのがぴったりだ。
そんな様子ではむしろやる気満々だと疑われるだけでは? と思うし、多分するのよね、と確信めいたものがある。しかし、それもまた彼らならではの距離感なのかもしれない、と考えてしまえば、少し羨ましくもある。
「旦那様、召し上がらないのであれば片付けますが、いかがなされますか」
コレウスはマクス様の前に並べられた、盛り付けが乱されただけで一切減っていない皿を見ながら言う。
「あ、いや、食べる」
「……温め直しますか?」
「このままでいい」
そうは言ったものの、やっぱりなにかに気を取られているマクス様の食は進まず、彼につられるように食欲を無くしてしまった私も、せっかくの美味しいごはんをほんの少し残してしまった。
「キーブスに、残してごめんなさいと伝えて」
「気にはしないと思いますけど……伝えておきますね」
食後のお茶を用意するために厨房へ向かうクララにお願いすれば、笑顔で返された。
いつものように夕食後、夫婦の寝室でお話をする――つもりだったのだけど、やっぱりマクス様と視線が合わない。機嫌が良ければ膝に乗せられる日もあるのに、今日の彼は私から離れた位置、ソファーの端に座って、まだなにか考え込んでいるようだ。
黙り込んだまま時間が過ぎる。コレウスは、悪いことが起きているわけではないと言うけれど、だったらなにをこんなに悩んでいるのだろう。
――そうだわ。マクス様が悩んでいらっしゃることが魔族のことでないのなら、私にも出来ることがあるかもしれない。
そう思いつけば、この落ち着かない状況の打開策を見つけたような気になる。
「あの、マクス様?」
「ん……あ、ああ、ビーか」
勇気を振り絞って話し掛けると、やっと隣に私がいることに気付いたように目をしばたかせ苦笑いを浮かべたマクス様だったが、姿勢を直すような素振りで、さり気なくまた距離を取られる。避けられてるようで、胸が痛い。平静を装うとしたのに、ショックが顔に出てしまう。
「……? どうかしたのか?」
心配そうな顔をしてこちらを見てくるマクス様。でも、いつものように身体ごと覗き込んではこない。どうしていつものようにしてくれないのだろう。傍から見ればほんの少しの距離の差でしかない。でもそれが、胸を深くえぐってくる。
「私、なにかしてしまったでしょうか?」
違う。言いたかったのは「私に出来ることはありませんか?」だったのに。思わず、胸を押さえて自己中心的な質問を投げかけてしまった。
「いや、ビーはなにも――」
そう言いかけた彼は、自分と私との物理的な距離が見えたらしい。少し躊躇ったように視線をさまよわせてから、私のすぐ近くに座り直す。そっと伸ばされてきた手が、いつもよりも遠慮がちに重なる。ぴくん、と震えてしまった手に指が絡む。そのまま、親指の腹で優しく甲を撫でられる。
エミリオ様にされた時は鳥肌が立つほどに嫌だったのに、マクス様に触れられた部分からはじんわりと温もりが伝わってきて、あの時とは真反対の感情が生まれてくる。
「すまない。私の態度のせいだな。少し考えなくてはいけないことがあって……つい思案にふけってしまった。あなたとふたりで過ごせる時間だというのに、失礼なことをしたね。不安にさせて悪かった」
「今悩んでいらっしゃることは……魔族のこと、ではないのですよね」
「ああ、そちらは今のところ大丈夫だ。念のため領地を見て回ったが、あの辺りに問題はなかった。各地に派遣している魔導師からも特に異常が発生しているという報告はない」
微笑みを浮かべたマクス様から手を両手で包まれれば、嘘ではないのだろうと信じられるような気になる。
「ならば、マクス様はなにについてそのようにお悩みなのですか?」
「ん? うん、あー……その……」
口角を下げ、とても言いにくそうな彼は「コレウスから、少々指摘されたことがあってなぁ」と奥歯に物が挟まったかのように言葉を濁す。
ここはあまり深く掘り下げない方が良いのだろうか。なんと返したものかと思っていると、マクス様は私の手を持ち上げて、彼の頬を摺り寄せた。それから甲にそっと唇を寄せて、小さな溜息を吐く。
「これは、私の中でしか解決のできない問題だから、ビーが気にすることはないよ」
「でも」
「本当に、あなたが気に病むようなことではないんだ」
気にしないで、と何度も言われて、つい、また口が滑った。
「私は、マクス様の妻ではないのですか」
「……っ。どうしたんだ、いきなり」
ハッと息を呑んだマクス様の手に力がこもる。空色の瞳も揺らいでいるように見えた。
いつも自信に満ち溢れている彼が、このような表情を浮かべるほどに難しい問題なのだろうか。これが魔族に対抗する手段を画策して、という話であれば私に出来ることなどない。あるとすれば、彼が安心してやるべきことを成すために自分で自分を守ることだけ。辺境伯や魔導師の塔のマスターとしての執務に関しては、それぞれに右腕と呼べる人物がいたのだろうから、ものをわかっていない私に出る幕はない。
だとしたら、妻という立場だからこそ、私に出来ることは?
「まだ未熟な私ではなんのお役にも立たないかもしれませんが、妻としてマクス様を支えさせていただきたいのです。秘密保持などの関係で、私には話せないこともたくさんあると思います。そのようなことを無理矢理に聞き出すつもりも、立場をわきまえずしゃしゃり出るつもりもありません。しかし」
「ビー」
「私は、あなたの妻です。ベアトリス・シルヴェニアです。マクス様を――心から大切に思っているのです。ですから、そのように思い悩まれているのを見ると胸が痛くなります。少しでもお役に立ちたいのです。せめて、私のそばでは気を張られることのないような、そのような関係になりたい……と思うのは、身の程知らずでしょうか」
マクス様の眉が下がって、泣くのではないかと勘違いしそうな表情に一瞬だけなる。大きな溜息を吐いた彼は、私の手を離すと両腕を広げた。
「私の腕の中に来てくれるかい?」
「はい」
ぽすっと彼の胸に頭を預ければ、ゆっくりとその腕に力が入っていって強く抱き締められる。
「ビーは、私の妻だ」
「はい」
「……私の愛しい妻だ」
その言葉を嬉しいと思うと同時に、すぐに続けられた言葉に息が詰まる。
「この2年間の契約の間だけでも、あなたを甘やかして愛したいというのは前から伝えていたと思うが」
2年間。それさえ過ぎれば、マクス様は私に離縁を申し出ることが出来る。でも今の私は、その日に同意できる自信はないのだ。
――お別れするのは、嫌。私は、彼にどうしようもなく惹かれているのを自覚してしまったから。
これは、初恋だ。私の、初めての恋だ。
はしたないとは思いながら、彼の背中に腕を回して強く抱き返す。この腕の温もりを手放す日が来るだなんて、想像したくない。
「甘やかすばかりではなくて、私も、あなたに甘えて良いのだろうか?」
思いがけない言葉に目を見開く。
彼が、心の拠り所――とまではいかなくても、寄り添う相手に私を選んでくれるというのなら全力で応えたい。
「はいっ! 頼りないとは思いますが」
「ああ、こんなに細い身体では、寄りかかったら折れてしまいそうだな」
顔をあげようするが、マクス様に頭を抱えこまれていて、彼を見ることができない。溜息まじりなマクス様が、首筋に顔を埋めてくる。
「折れません」
「あぁ、そうだな」
「これからは、妻に甘えてくださいますか?」
「もう甘えているさ」
ビー、私のビー、と繰り返す声はいつもよりも何倍も甘くて、私の心臓ははち切れそうになっていた。
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