第72話
「聖女が現れたということは、この国に、また脅威が訪れる予兆……ということですか?」
そう問い掛けた声が不安を隠しきれていなかったのだろう。相変わらず繋がれたままだった手を、安心させるように優しく握り直される。
「ここに来て隠しても仕方がないからはっきりと言おう。今後、この国、もしくは人間の世界に、あなたたちにとっては歓迎できないような事態が起こる可能性は高い。しかし、どんなことが起きようと、ビーのことは必ず私が守るから安心して?」
「それは異界への扉が開くということでしょうか」
「……あー、んー……そのことなんだが」
私の質問に、マクス様は複雑そうな顔をする。少しだけ眉をしかめ、視線を彷徨わせた姿を見ていると、嫌な予感が膨れ上がる。なにか、そんなに言い難いことが?
答えあぐねていたマクス様が偶然視線を送った先にコレウスがいたのだろう。主人と目が合った彼は、小さく首を左右に振る。あぁ、と口の中で呟いたマクス様は前髪をかき上げた。
「人間たちには『異界への扉が閉ざされ平和が訪れた』――そう伝わっているんだったな。実際のところ、異界というか、魔族が住んでいる階層からここに繋がっている道は、元々ちゃんと塞がれてなどいないんだよ」
「「え?!」」
ソフィーと声が重なる。魔族たちの住む世界とこの世界がずっと繋がったままだったということは、聖なる乙女だった彼女でも知らなかったらしい。そんなはずはありません、とソフィーは強張った笑みを浮かべる。
「教会でも、歴代の聖女様の尽力によって異界への扉は塞がれ、魔族がこちらに来ることはなくなった、と教えられてきました。現に、200年近く魔族の目撃例はないはずです。今も念のため、定期的に聖なる乙女たちが扉を封印をしている数か所を回ることにはなっていますが、でも私が行っている間にそこに綻びなど――」
マクス様は手のひらを彼女に向けて言葉をとめさせる。わかっているとでも言いたげなその仕草にソフィーは小さく唇を噛んだ。
「と、いうことにしておかなければ、不安が広がるばかりだろう? 教会と聖女、聖なる乙女のおかげで平和が続いているのだ、と思わせることが出来たなら、それでいいんだ。見えないものはないのと一緒だ。魔族として目に入ることのないものは、それは魔族ではない別のものだよ」
「しかし、シルヴェニア卿」
「ある程度力を持った魔族なら、人間の作った封印なんざ無視してこっちに来ることが出来る。それから、あいつらはこの世界を蹂躙したいとか支配したいなんて思ってないよ。人間程度、ただの玩具だと思っているんだ。目的が遊ぶことに特化しているだけに、タチが悪い。その昔、彼らが侵攻してきたと伝えられているのは、先に人間が手を出したからやり返されただけだ。文献を引っ繰り返してみればいい。魔族がいたから攻撃した、その結果大きな力で蹂躙された、とかあるはずだ。今だって表立って出てくることはほぼないが、人間の社会に紛れ込んで生活している魔族はいるとさっきも言っただろう? 彼らが大きな問題を起こしていないから、存在を知られていないだけだ。見えなければ、いない。そういうものだよ」
絶句してしまった彼女を見て、マクス様はフォローしようと思ったようだけど、話を聞いていくうちにソフィーの顔はどんどん蒼白になっていく。「少なくとも今人間界に来ている連中は、気の迷いでも起こさない限りは危険ではない」と言われたところで、私たち人間が安心できる要素などない。
「今さら隠す気はないが」
マクス様が軽く指を鳴らせば、その耳が長くなって、空色の瞳も複雑な光を宿す。
「見ての通り、私もエルフ族だ。本来、人間の世界で生活する必要はない。まあ、同族にも好き好んでこっち人間と共に生きているのもいるが、そんなのは一部だな。しかし、聖女が長らく不在だったことで不安がった人間――この国の王と契約を結ばされ、今の私は、ここで辺境伯としてこの地を護らなければいけない立場にある。さすがにな、私を領主として慕ってくれている人々を無視するわけにはいかない。私は、魔族がなにかやってきた時の対抗策として留め置かれているんだよ」
そんな話も知らない、と呟いたソフィーに、マクス様は面倒くさそうに後頭部を掻く。せっかく綺麗に結われていた髪が乱れてしまったのも気にせず、また盛大に溜息を吐く。
「正直面倒だ。魔族のどれかが悪だくみをしようとしているのか、それとももっと別の問題が起きるのか。人間だけで対処してくれるか、じゃなきゃぁなるべく先延ばしにして代替わりを願いたいところだが……まあ、人間の寿命を考えれば、私がやらなくてはいけないんだろうなぁ……」
心底嫌そうにマクス様は言う。そこに脅威を感じている様子はない。魔族を前にしても負けるはずがない、という自信が垣間見える。
ひとりの魔族に国が滅ぼされたという話もあるというのに、コレウスやクララたちも主人のそんな発言を当然のように受け入れている。ということは、よほどのことがなければきっと彼一人で対応できてしまうのだろう。
――そういえば、エルフの長や魔導師の塔のマスターの怒りを買って消された国の話がある、とアレク先生からも言われたのだったわ。
歴代の彼らにできたことをマスターが出来ないはずがない、と言ったアレク先生の言葉を思い出す。ということは、マクス様個人で、人間界に脅威をもたらした魔族とほぼ同程度の力があるのだ。やっぱり私は、とんでもないひとを夫としてしまった。
私の手を壊れ物に触れるかのように優しく握っているこのひとの全力の力を見た時、恐怖を覚えて彼を傷つけることがないと良いのだけど。
一瞬、そんなズレたことを考えた。
「いや、でも私、エルフだぞ? 人間のためにあれこれやってやる理由なんて本来ないんだ」
「でもぉ、今はどうなんですか?」
黙って話を聞いて――というよりも、黙々とテーブルの上のお菓子をおなかに収めていっていたミレーナ嬢が、また場の空気感にそぐわない天真爛漫な笑みを浮かべる。彼女を見たマクス様は、話す前からじとりとした目つきになっている。
「今も、人間界、というか、この国のために動くのは面倒だと思ってますか?」
「……嫌なことを言うなよ」
「えー、だって、人間界にはお姉様も含まれますよ?」
「わかっている。……はぁ。ビーの生まれ育った国を見捨てることなんて出来るか。ビーの家族も友人も、彼女が大切だというものを傷つけさせるわけにいかないだろうが」
「ですよねぇ。良かったです」
――チッ。
なにか、小さな音がしたのは、気のせいかしら。
また不機嫌そうになるマクス様は「ああもう、本当に面倒くさい。私、なにかにハメられた気がする」ぶつくさとそんなことを呟いていた。
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