第70話

 みんなの前で手を握られている。誰かに気付かれたらどうするのか、と思いながら顔を上げれば「大丈夫かい?」と瞳を覗き込まれる。


「不安に思うことはない。あなたには私がついているから」

「あ……。私、そういう意味では」


 俯いてしまった私の態度で勘違いさせてしまったのかもしれない。不安に思ったのは、誰かが私に向けてくる悪意ではない。そんなものに対峙することには、ありがたくはないがとっくに慣れている。


「実家の基盤は、事実無根な噂程度でどうにかなってしまうような脆弱なものではありません。なので、なにも心配はしておりません」

「ああ、そうなのかい?」

「はい。そして、もしも私自身の評価が誰かの悪意のこもったありもしないような話で揺らぐのであれば、それは私自身の努力不足、不徳の致すところです。自分の行いで取り戻すしかありません」

「……んー、まぁ、そんな簡単な話でもないと思うんだが。それに、そもそも偽りであるのなら、そんなもの流されない方が良いに決まっている。相手の好きにさせておく必要はないな」


 マクス様は私の言葉に笑って、繋いでいる手を持ち上げると頬を寄せてくる。


「しかし、ビーのそういうところは好ましいと思うよ。ただ、前も言ったと思うが、周囲に助けを求めることも覚えていいと思うのだけどな。特に、私のことを頼ってくれたなら――それはとても幸せなことだよ」


 ぴたり、と彼の頬に私の手が当てられている。少しだけ冷たかったそこは、私の体温でゆっくりと温かくなってくる。


「まだ私を信用できないかい? これでもそこら辺の――」

「私、マクス様のことをとても頼りにしております」


 信用していないだなんて、そんなことは絶対にない。つい、彼の言葉の言葉を遮ってしまう。


「うん?」

「マクス様がいらっしゃれば、助言に従っていれば、なにも危険はないのではないかと……最近ではすっかり安心しきっていて。自分の頭で考えることを放棄していたのではないかと気付いて、そんな自分を情けなく思っていたところです」


 正直に告げれば、少しだけ目を見開く仕草をした彼はすぐに目を細めて、嬉しそうに笑った。その表情に、また息が苦しくなる。いつもなら、無意識にしているはずの呼吸がわからなくて、空気を求めて唇が震える。

 

「情けないなんて思わないよ。もっと頼ってくれて、甘えてくれて構わないんだ。ずっとそう言ってるじゃないか」

「でも、それでは私きっとだめになってしまうので」

「なってもいいじゃないか」

「良くないです」


 そんなやり取りをしていると「まぁ……!」という溜息交じりの歓喜の滲む声が聞こえてきて、うっかりマクス様だけに視線と意識を奪われていたことを自覚する。

 ――いけない。お客様がいらしているのに、今の私ったらマクス様のことしか考えていなかったみたい。

 世界が彼と私だけになってしまったような気がしていた。ミレーナ嬢やソフィー、クララたちの前だったと思い出せば途端に恥ずかしくなって、彼から手を引き抜こうとしたのだけど。しかし、しっかりと指を絡めるように握りこまれては逃げようもない。


「マクス様……っ」

「なんだい?」


 小声でやめてくれるように訴えても彼は朗らかに笑うばかりで、羞恥心でいっぱいいっぱいになっている私をからかって楽しんでいるようにしか思えない。挙句、手だけでなく身体まで寄せてこられて、上半身全体が熱くなる。


「本当にあなたは愛らしいね」

「マクス様っっ!」

「ああもうっ! 目が幸せですっ、なんて素敵なのっ」


 弾んだ声のミレーナ嬢の口を、慌てた様子でソフィーが塞ぐ。さっきまで労わるように見つめていた相手を、今度は吊り上がった目で睨んでいる。その顔が視界に入ってきて、そんな怖い顔をしなくても……と現実に返る。


「ですから! こういういい雰囲気の時にはいくら感動してもどれだけ感激してもそれを口にしてはいけないと、先ほども私申し上げましたでしょう? もっと見ていたいと思うのならば尚更です。黙っていなければ、ふたりの世界は終わってしまうものなのです。少し我慢なさいましっ」

「我慢できなかったの……っ」

「それは十分に理解できます。私も危うく声が出かけました。しかし、あれこそ我慢しなければいけない時でしたわね」

「……気を付けるわ」


 ――ひそひそと小声で話しているつもりらしいけど、全部聞こえているわよソフィー!

 どうしてそんな変なアドバイスをしているの、とあちらに声を掛けたいのに、真っ直ぐに視線を合わせてくるマクス様がそれを許してはくれない。とろけそうな笑みで私だけを見ているその顔から、恥ずかしくて堪らないのに視線が外せない。


「あの、ミレーナ様は安全だとわかったのなら、このようなことをする必要はないのでは……」 


 なんとかこの状況を変えなければ、と焦って口にしたのはそんなこと。

 わかっている。これが、彼女たちに私たちが仲睦まじい夫婦であると見せるためにしているわけではないと、なんとなく気付いている。でも。

 浅くなった呼吸のせいかもしれない。目の前がくらくらしてくる。


「このようなこと、とは?」


 明らかに他の人と話す時とは違う柔らかくて甘いトーンの声に、心臓があっちこっちに飛び跳ねてしまいそうだ。


「こんな風に、見せつけるような……」

「私がしたいからしているんだよ」


 頬から離された手が口元に寄せられ、そこに小さく音を立てて口付けされると引っ繰り返りそうになる。かろうじてそれを押し留められたのは「きゃぁぁああ!」というミレーナ嬢の黄色い声と「ミレーナ様!」と彼女を窘めたソフィーの鋭い声のおかげだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る