第62話

 失礼します、と静まり返っていた部屋に澄んだ声が響く。


「少々、お顔が近すぎるのではないでしょうか」


 静かなソフィーの声。その声で、ハッとしたようにミレーナ嬢はマクス様から身体を離す。しかし、マクス様の手は、まだミレーナ嬢の顔に触れていた時の形のまま。視線も、まだ彼女に注がれたまま。その表情が名残惜しそうに見えて――なんだか、ズキズキと胸が痛い。

 

「すまない。少々気になってしまってな」


 考え込むような素振りを見せながら、彼はまた、つい、と手を伸ばしてミレーナ嬢に触れようとする。


「……今度、ふたりきりで話をする時間を取ってもらうことは可能かい?」

「え? えっ? わたしですか?」

「ああ」


 マクス様は、戸惑っているミレーナ嬢に微笑みかける。

 その声は優しくて、いつも、私が聞いているような声で。どうしてそれだけで心臓がこんなにもうるさくなるのか、わからない。


「私はあなたに興味がある」

「えっ?!」


 えぇと、と口籠るミレーナ嬢の顔は真っ赤だ。その小さな姿を庇うように、立ち上がったソフィーは彼女を後ろに下がらせてマクス様の真正面に立つ。優し気に微笑んでいたマクス様は、表情そのままに視線をソフィーに移し、やっとミレーナ嬢へ向けていた手を降ろした。


「申し訳ございません、シルヴェニア卿。ミレーナ様は聖女様であり、またエミリオ殿下の婚約者でもあります。他の男性と二人きりで会うという状況は、お世話係を仰せつかっております私としては許容できるものではありませんわ」

「それは、ソフィエル嬢が一緒ならば構わない、という意味か?」

「……そちらも、どなたかご同行くださいまし。例えば、奥様であられるベアトリス様ですとか」


 え、私? と今度は私が驚く番だ。

 

「良いよね、ベアトリス。こちらは私が同行するわ。エミリオ様には気付かれないようにするから、安心して」


 有無を言わせぬソフィーの声に、勢いで押し切られてしまう。彼女の目線が『ベアトリスだってなにを話そうとしているのが気になるでしょう?』と言っているようで、気にならないと言っては嘘になるけれど、ショックを受けることになるなら聞きたくない、と臆病風に吹かれそうになる。


「では、日程は改めて」

「可能ならば、なるべく早くお話したいです! わたしも、お姉様のご主人とお話したいと思っていたことがあるので」

「ふむ。私はいつでも構わないが……聖女様に時間を作ってもらうのが大変そうだな」


 そんな返事をするマクス様を、アレク先生がじとりとした目で見ている。彼だって暇なはずはないのだ。多分、忙しいだろう仕事の合間に、私用を無理矢理にでも捻じ込むつもりなのだろう。現に今だって、ここでこうやってのんびり話している時間はないはずだ。マスターが姿を消してしまったのだろう魔導師の塔の人たちが困っている様子が目に浮かぶようだ。

 タイミングよく、昼休みの終了を告げるチャイムが鳴る。


「……すみません、これ以上のお話はまた日を改めてお願いできますか。立場上、生徒たちに授業を放り出して良いとは言えませんので」


 もう終わりです、と手を打ったアレク先生に部屋を追い出される。「さっさと出ていってください。ここはぼくの部屋なんですよ」と言ったアレク先生は、少し……いや、だいぶ疲れているように見えた。


「では、マクス様、また後ほど」


 礼をした私をちらりと見たマクス様は、小さく手を上げる。しかし目は合わなかった。その目線は、まだミレーナ嬢に注がれているように感じられた。


 午後の講義のある教室に向かいながら、ミレーナ嬢は「ベアトリスお姉様のご主人って……信じられないくらいお綺麗ですね」としみじみ呟く。


「あんなに間近で見詰められると、ドキドキしますね。呼吸もしてはいけない気がして――」


 その気持ちは、わかる。

 マクス様は、妙に距離の近いところがあるから、私もいつもドキドキさせられっぱなしだ。そうですね、と同意すれば良いだけの話。なのに、言葉が見つからない。もやもやする。返事が出来ないでいる私を見たミレーナ嬢が「あっ!」と大きな声を出した。


「お姉様、わたし、シルヴェニア卿は好みではないので!」

「……はい?」

「美しい方だとは思いますけど、それだけです。好きになったりは絶対にないので、安心してくださいね?!」


 はぁ、と間抜けな返事をする私に彼女は心配そうな顔をする。


「そういう心配をなさってのお顔ではないですか?」


 ――顔?

 そっと頬に触れてみる。どこか、おかしいのだろうか。変な顔をしていたのだろうか。表情を繕う訓練ならばずっとしてきていたのに、最近はクララやアナベルにつられて、あまりにも感情を表に出しすぎていたかもしれない。


「憂鬱そうに見えたので、もしかしたらわたしがシルヴェニア卿に惹かれるのではないかと心配しているのかと思って」

「ここから先は人が増えます。そのようなお話はまた今度――」


 関係のない人に聞かれるのは好ましくない会話内容だ。ソフィーはミレーナ嬢を止めようとする。しかし、彼女は少し眉を寄せた真剣な表情で言い返すのだ。


「でも、わたしお姉様には嫌われたくないんです。お邪魔するつもりなんてないことだけわかっていただきたくて」

「ミレーナ様! あなたはいつもそうやって」


 小声で言いあっている二人に、笑顔を作って話し掛ける。


「ご安心ください。ミレーナ様のお言葉を、疑ってなどおりませんわ」

「お姉様」

「それに、私はなにも、気にしませんので」


 眉一つ動かさずに言えば、私の顔をまじまじと見たミレーナ嬢とソフィーは顔を見合わせる。黙ってしまった二人と歩いていくと、途中で王子と聖女の護衛として来ているレオンハルト様が廊下に立っているのを見つけた。ソフィーはレオンハルト様に小走りに近付き、なにかを話し掛けるとミレーナ嬢を託して来た道を戻っていく。


「これは、あなたのためよ、ベアトリス。本当、世話の焼ける子だわ」


 擦れ違い際、耳元にそう囁いていったソフィーの背中を見送った私は、その日の放課後すぐにお茶会が設けられるだなんて、これっぽっちも想像していなかったのだった。

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