第59話
ねぇビー? と妙に甘ったるい声でエミリオ様が話しかけてくる。
強烈な不快感に無意識に身体を引く。その背中になにかが当たった。
「あっ、ごめんなさい、お姉様」
振り返れば、ミレーナ嬢がそこに立っていた。
「……ミレーナ、どうしたの?」
「あちらの方が召しあがっているデザートが美味しそうだったので、なんという名前なのか伺いに行こうかと思いまして」
「ああ、そう」
エミリオ様の手から力が抜けた瞬間を見逃さずに引き抜き、触れられていた部分をスカートで拭う。そして会話が途切れたと判断して、素早く立ち上がる。
「申し訳ございません。エミリオ様。アレク先生のお部屋に忘れ物をしてきてしまったのを思い出しました。次の授業で必要なものなので、取りに行かなくてはいけません」
「……ああ、そうなんだね」
引き留められるかと思いきや、エミリオ様はあっさりとしたものだった。しかし、彼はポケットを探ると例のブローチを差し出してくる。彼らの談話室への通行許可証。きらりと光る第二王子の紋章が、なぜか禍々しいものに思える。
「まだいろいろと話したいから、受け取ってくれないか」
「……それは……」
「ね? あそこなら、人目を気にせずに話すことが出来るから。いつでも相談に乗ってあげられる。誰かの耳に入ることなど気にせずに、本当のことを話せるよ」
断ることを許されない空気。自分が直接渡す分には、断ることが出来ないと思っているような態度。
――ああ、嫌だ。まだ私を、自分の手の届くところに行こうとしているのね。
そうは思えど、受け取らないわけにもいかない。おとなしく手を差し出せば、わざわざ私の手を支えるようにして手のひらにブローチが置かれた。
「ありがとうございます」
「ベアトリスお姉様? これからアレク先生のところに行かれるのですよね?」
「え? は、はい」
形ばかりのお礼を言った私に、エミリオ様は意味深な笑みを浮かべて口を開こうとした。しかし、それよりも一迫速く、ひょい、と後ろから身を屈めるようにして覗き込んできたミレーナ嬢が上目遣いに話し掛けてくる。
質問を肯定すれば、にこにこと無邪気な笑みを浮かべた彼女はぱちんと手を打った。
「わたし、先生に伺いたことがあったんです。一緒に行っても良いですか?!」
余計なことを思い出してくれたものだ。本当に忘れ物をしたわけではない。付いてこられたら嘘をついたと知られてしまう。しかし、断るのも不自然だ。どうぞ、と笑顔で答えれば、ミレーナ嬢は近くの席に座っていたソフィーを呼ぶ。
「ソフィー様、参りましょう」
「はい、ミレーナ様」
「女の子だけでお話もしたいので、男性方は付いてこないでくださいね!」
絶対ついてきちゃだめですよ、と念を押したミレーナ嬢は、私とソフィーを左右に、腕を組むようにして弾む足取りで食堂を出た。
ミレーナ嬢は真っ直ぐにアレク先生の部屋へ向かっているようだ。少々困ってソフィーを見れば、諦めて、とでもいうような顔で首を左右に振られた。
「お姉様、こうやってふたりでお話しするのははじめてですね」
「ええ。ふたりきりではないですが」
ソフィーと私を引っ張りながらずんずん歩いていくミレーナ様に遅れないよう、足を動かしながら話をする。小柄な割に大股で歩いていく彼女の歩みは速い。私の方がだいぶ背が高いのに、早足にならざるを得ない。
「ソフィー様は、大丈夫ですもの。わたし、ずっとお姉様とお話したかったんです。今日はあまり時間がないですけど、これを機会にもっともっと仲良くしていただけたら嬉しいです」
明るい声と笑顔。私に対する悪意はないように見える。エミリオ様の私に対するあの態度を見て、彼女はなにも思わないのだろうか。ソフィーは大丈夫とはどういう意味なのかも、さっぱりわからなかった。
「失礼します!」
ミレーナ嬢は大きな音を立ててノックをすると、返事も待たずにアレク先生の部屋のドアを開ける。お湯を沸かしていたらしいアレク先生が、呆れたような顔で振り返る。
「返事があってから開けてください、ミレーナさん」
「あら、わたしったらうっかり」
「まあ今回は良いでしょう。今後気を付けてくださいね」
「はい!」
「さて、三人お揃いでぼくにどんな御用ですか?」
腰掛けてください、とアレク先生に促されてソファーに座る。歩いてきたのと同じく、ミレーナ嬢が真ん中だ。
どうぞ、と目の前に置かれたお茶と茶菓子に遠慮なく手を付けようとする聖女様をソフィーは制止しようとする。毒見をしなくては、と思ったのだろう。しかし、声を掛けるよりも前にその口にクッキーが運ばれる。「美味しい!」と感激したような声を出して瞳を輝かせたミレーナ嬢に、ソフィーはがっくりと肩を落とした。
呆れ返った様子を隠さないソフィーに、ミレーナ嬢は明るい調子で言う。
「ソフィー様ったら、まだ毒見なんておっしゃってるんですか? わたしは女神の加護があるので、毒物は効果ないのでしょう? 毒無効スキルがあるのは、聖なる乙女であるソフィー様も一緒でしょう?」
「それはそうなのですけど、しかし一応形式的に必要とされていますので」
「効果のないものなら、いくら食べても大丈夫です。毒に対して耐性がある人の毒見役で、耐性のない誰かが危険な目に合うのは馬鹿らしいと思います」
それは確かに、と思ってしまったのが顔に出ていたのかもしれない。こちらを見たソフィーから軽く睨まれてしまう。
「そうそう。わたし、家族がおなかを壊すようなものを食べてもいつも無事だったので、ずっと胃腸が人一倍丈夫なのだと思っていたんです。でも、無事だったのはこのスキルのおかげだったんですね」
「そういう発言は聖女様のイメージを著しく損ねますので、人前ではなさらないようになさってください……」
頭が痛そうな顔をしているソフィーがかわいそうになってくる。黙って聞いているアレク先生も苦笑いだ。
とはいえ、天真爛漫でだれにでも優しく無邪気な聖女様、という姿が平民層から好かれているという噂を聞いたこともある。無理に「聖女らしさ」という型にはめようとしても、言うことを聞いてくれるような性格でもなさそうだ。彼女の世話係をさせられているソフィーは胃が痛いことだろう。
「ところで、ここにはなにをしに? 食後のお茶を飲みに来られただけですか?」
さり気なくマクス様と幼い頃の自分たちの絵姿が入っている額を伏せて、アレク先生はミレーナ嬢に尋ねる。
「あ、そうでした。女の子だけの内緒話をしに来たんでした」
「……ぼくは男ですが、いても良いのでしょうか?」
「アレク先生は大丈夫です」
「……それは、どういう意味でしょうね」
それに、ここはサロンでもなんでもないんですけどね、というアレク先生の言葉が聞こえないかのように、ミレーナ嬢は私に明るい笑みを向けてきた。
「お姉様は、今の旦那様と無理矢理結婚させられたんですか? 望まない結婚だったんですか? 冷遇されてるんですか?」
いきなりなにを言い出すんだ、とソフィーの目が丸くなる。私は、いつも通りに「いいえ」と答えるだけだ。そんな私の目をじっとアメジスト色の瞳で見返してきたミレーナ嬢は小首を傾げた。
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