第57話
「そういえば、この話はしていなかったよね」
笑顔を作ってはいるけど、目が笑っていない。こんな表情のエミリオ様に真正面から見つめられた記憶などない。きゅっと心臓の辺りが冷たくなる。一気に食欲がなくなり、一度は持ち上げたスプーンをテーブルに置く。
エミリオ様は、綺麗な所作でシチューを口に運びながら微笑む。
「やっと報告が上がってきたんだ。とても苦労したよ。調べさせればすぐだと思ったんだけどなぁ。どうしてこんなに時間がかかったのか、はなはだ疑問なんだけど」
私は黙ったままその顔を見返す。笑顔を作り直したエミリオ様はスプーンを置いて、その指先で数度テーブルを叩くと、緩く指を組んだ。
「きみは、本当にシルヴェニア卿と結婚していたんだね」
「何度もそうだとお伝えしたはずですが……」
あまりにも綺麗に笑っているエミリオ様に少しだけ違和感を覚える。
――この笑顔の意味は?
私の言葉が事実だと知って、それで?
だからもう関わり合いになろうとはしない、という宣言ならば、わざわざここに来て共に食事をする必要などない。彼の距離感が変わった様子はない。だとしたら、この会話の意図は。
喉がヒリついていく。
「人間の口から出る言葉は必ずしも真実ばかりじゃない。偽りも、いくらだって、誰だって口にできる。もしくは、そのように言えと強要されているとか。誰か一人から聞いた話だけで物事は判断できないものだよ。僕もあらゆる可能性を考えていたのだけどね、最悪の結果が出てきた」
「私の発言は偽りではありませんし、誰からも強要されては――」
「うん、わかってる。きみにはそう言うしかできないだろうねぇ」
エミリオ様は、私の言葉を最後まで聞かない。途中で割り込むように話し出す。その視線に、私の意見など聞かれていないのだと気付く。
会話をする気のない人になにを言っても無駄だろう。私は口を閉じて、膝の上に置いた手をテーブルの下でぎゅっと握る。
私たちの会話を聞いているのかいないのか、ミレーナ嬢はにこにこと幸せそうにご飯を食べ続けている。この微妙な空気の中で平然と食事ができるだなんて、可憐な見た目とは違ってかなり豪胆な人だと感心する。
「あろうことか、ビーとシルヴェニア卿の婚姻には王族用の結婚宣誓書が使われていたよ。僕がこの目で直々に確認した。あれを見た時、どれだけ驚いたことか。ビーには想像もできないだろうね」
肯定も否定もせずに彼を見返す。
――このお話、現婚約者の前ですることかしら。
視界の隅におかわりを要求しているミレーナ嬢を捉えて、そんなことを思う。
「きみが知っているかどうかはわからないけれど、あれの拘束力は他の誓約書とは異なる類のものなんだよ」
今までにこやかだったエミリオ様の表情全体がすぅっと冷たくなる。短く息を呑みそうになるのを堪え、淑女の微笑みで心に壁を作る。大丈夫、私はなにも悪いことなどしていないのだから、背筋を伸ばしていればいい。
「王族の婚姻は、愛の女神から直接祝福されたものだ。それは魂の結びつきといっても良いものなんだ。ふたりは、永遠に共にある。そういう誓いをするものなんだよ」
――あら?
マクス様から聞いた話と違う。確か、一度婚姻関係になったからって必ずしも生涯添い遂げなければいけないなんて決まりはなくて、どうしても夫婦関係の継続が難しい場合には離縁を申告することが認められているという話だったはず。私たちも、2年の期間を過ぎたら離縁できると言われている。
どちらが正しいのだろう、と思って、次の瞬間、どちらも正しいのだろうと考える。
エミリオ様がここで嘘をつく理由がない。本来はあの誓約書は永遠の婚姻関係と愛の拘束力があるものなのだろう。彼の言う通りの契約のところを、マクス様は愛の女神ヴェヌスタに直接交渉することで婚姻関係を破棄しようとしているのかもしれない。
――わざわざそこまでしなくてもいいのに。
ビー、と、また親しげに呼ばれて、意識を彼に戻す。
「あの婚姻誓約書は、僕とビーが結婚するために特別に作られたもののはずだ。どうしてシルヴェニア卿が使うことが出来たのか、今追加調査を命じているところだよ。不正が存在するのなら、その婚姻は無効ということになるしね」
王族用の誓約書という意味であれば、天空城アクルエストリアの主であって、エルフ族の長、つまりはエルフの王であるマクス様ならば十分に使う資格はある。しかし、今余計なことは口にすべきではない。反応のない私に、エミリオ様はゆったりとした笑みを向けてきた。
しかし、その視線に、まるで蛇のように全身に絡みついてくるような錯覚を覚えて腕にぷつぷつと鳥肌が立つ。
マクス様と私が結婚しているという話を信じようとしなかったエミリオ様は、やっと事実を自分で確認する方法に気付いたようだ。
教会は、どこかから誰かの婚姻状況についての問い合わせがあった場合、誓約書の有無についてだけを回答し、実物を見せることはない。愛の神の名のもとに伝えられるそれが偽りであることは許されず、ゆえに誓約書を見せられずとも教会からの返答はすべてが真実とされるからだ。
しかし、さすがに王族直々に確認したいと言われて突っぱねることはできなかったようだ。エミリオ様は教会を訪れ、そこであの誓約書に書かれた私とマクス様の名前を確認したようだった。
――面倒なことになった、ということね。
はらりと落ちてきたサイドの髪の毛を耳に掛け直す。
黙って話を聞いていると、それをどう捉えたものかエミリオ様は降ろしかけていた私の手を握ってこようとした。触られる理由はないから、気付かなかった振りでそれを避ける。視線を手元の料理に落とした私の耳に、エミリオ様が鼻から短く息を吐くのが聞こえてくる。
あの誓約書は彼にはもう必要のなかったものだ。しかも、まったくの未使用というわけでもなく、私の名前だけ記入されていた。あの場では、ああするしかなかったのだ。マクス様が私のため、そしてこの国の安寧のために自分の身を捧げてくださったことに感謝こそすれど、変な勘繰りを入れるのは失礼と言うものだ。
先程から激しい違和感に襲われている。
エミリオ様は、どうしてそんなことを重要視するのだろう。
ただの幼馴染の結婚に、どうしてそこまでこだわるのだろう。
「ビー、本当のことを教えて」
「ですから、私はマクシミリアン様と結婚しているんです」
何度も彼に伝えた言葉を口にする。
じぃっと私の目を見つめてくるエミリオ様に、わずかな恐怖心を抱く。
「ねえビー。いつの間にシルヴェニア卿と親しくなったんだい?」
「いつの間に、というのはどういう意味でしょうか」
「いや?」
彼はまた、作りこんだ笑みを浮かべて。
「僕に気付かれずに密会する時間なんて、あったんだね」
元婚約者からのそんな言葉に、私の目の前が一瞬白くなった。
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