第37話
翌朝。
マクス様のおかげでその後起きることのなかった私は、爽やかな目覚めを迎え――ることはできなかった。
誰かの喋っている声で目を覚ます。
「こらっ、やめなさいっ、ビーが起きる。そんな不満そうな顔をするな。この状況を見ればわかるだろうがっ」
ぶるるっと鼻を鳴らす音。目を開けると、そこにはマクス様の鎖骨があって、視線を上げていくとこっちを覗いているクイーンと目が合った。
「お……はようございます、クイーン」
「ビー、私が先では?」
「マクス様もおはようございます」
朝の挨拶を先に受けて満足したのか、クイーンは強引に私とマクス様の間に鼻先を押し込んでくるとそれを私の頬に擦り付けてから頭を上げる。それからマクス様の髪を噛んで引っ張った。
「痛い! 痛いと言っているだろうが。やめなさいクイーン!」
「クイーン、マクス様の髪が傷んでしまうわ。やめてあげて?」
「フンッ」
なんとかやめてくれたクイーンは私の目をじっと見つめ、小さく首を横に振ると今度はマクス様の頭を軽く噛んだ。
「わかった! わかったからやめてくれ。あぁもう、風呂に入らなければいけなくなったじゃないか。なんてことだ」
なにやら揉めている声に気付いたのか「なんの騒ぎですか」とアミカがドアを開けて入ってくる。部屋の中の光景を見るなり後ろを向いた彼女は、後ろからついてきていたクララの口を両手で塞いだ。
「まぁぁぁぁっ! やっと、やっとですかっ! 旦那様ッ、奥様ッ! おめでとうございます!!」
しかしその隙間からクララの感激したような大声が聞こえてくる。アミカの行動はあまり意味がなかったようで、塞がれているわずかな隙間が止めようとした。なんのこと? と首を傾げそうになった私よりも早く彼女の思考パターンを把握したらしいマクス様は溜息をつく。
「残念だが、クララの想像したようなことではないよ。ビーが眠れないというから添い寝していただけで、彼女が眠ったら部屋に戻る予定だったんだが――」
「それ以上はおっしゃらなくて大丈夫です。わかります。奥様の寝顔が愛らしすぎて結局離せなくなってしまったんですね、もうっ、旦那様ったらぁ」
朝からテンションの高いクララの横で、いつも通りにスンとしているアミカが私と視線を合わせる。
「失礼ながら奥様」
「なに?」
「旦那様を離して差し上げてはいかがでしょうか」
「え?」
彼女の指摘に自分の手元を確認する。
私の手は、マクス様の夜着をしっかりと握りしめていた。
「あっ、あっ、ごめんなさいっ、私……っ」
――だからマクス様はお部屋に帰れなくなってしまったのね。
こんなにしっかり握られていてはさぞ寝苦しかったことだろう。慌てて謝ると、体を起こしたマクス様は笑いながら髪をかき上げようとして、手にべとっとついたクイーンの唾液に顔を顰める。すかさずタオルを差し出したアミカが言う。
「旦那様、お風呂の用意を致します」
「あぁ、頼むよ。すまない、ビー。私はこれを落としてこなければいけない。今日は朝食を一緒に取れなさそうだ」
「いえ、大丈夫です」
「見送りには間に合うようにする。では」
クララを連れて自室に戻っていくマクス様。彼が退いたのを見たクイーンが寄ってきて、私を舐めようとする。しかし、その行動はアミカに止められた。
「奥様は学校に行かなければいけません。ですので、朝からゆっくりとお風呂に入る時間はありません」
今は駄目です、と制されて少々不満そうな顔をしたものの、クイーンは素直に引き下がる。窓から出て行ったクイーンを見送ったアミカは、窓とカーテンを閉めると私の所に戻ってきて着替えの準備を整えてくれる。制服に着替えて、今日は一人で朝食をとる。
今日もご飯は美味しい。それは変わらないのに、なんだか味気ない。
「今日のメニューはお口に合いませんか?」
「ううん、今日も美味しいわ。特にこのスープ、とても好きなお味よ」
ならば良かった、コックのキーブスは笑うが、私の手が進んでいないことはわかっているようだ。少し気にするような態度を見せながらも、これから私が登校しなければいけないことを考えると、別のものを作る時間はないと思っているのだろう。
申し訳ないと思いながらも、やっぱりお皿の上のものを食べきることはできない。
「ごめんなさい。今日から授業だから、緊張しているみたいだわ」
「ああ、なるほど。それは気付かず申し訳ありません。では学校に慣れるまで、もっと食べやすいものを作ることにしましょうか」
「これからも登校する日は朝あまり余裕がないと思うから、軽めにしてもらえると嬉しいわ」
私の言葉に納得したのか、キーブスは頷くと私が残したものを見る。残してしまったのは、ベーコンとバターたっぷりなオムレツの半分。それから、焼き立てのパンがたくさん入っているバスケットの中からは小さなパンが1つしか減っていない。
「残りは旦那様が召し上がるでしょう」
笑ったキーブスは私の食べ残した皿を持って厨房へ戻っていく。美味しかったのに残しちゃってごめんなさいね、とその後ろ姿に心の中で謝る。椅子を引いてくれたアミカと自室に戻って、髪を整えてもらう。クララはまだ戻ってきていないようだ。
「ねえ、アミカ」
「はい、なんでしょうか奥様」
「クララは、今マクス様のお世話を?」
「はい」
「お風呂の……?」
問うと、相変わらず真顔のアミカと鏡越しに目が合う。
「気になりますか?」
「えぇ……と……」
「クララが旦那様のお風呂のお世話をしているのが、そんなに気になりますか?」
「気にならないと言ったら、嘘になってしまうけど」
答える自分の顔が赤くなっているような気がする。少し、火照っているような。
じーっと私の顔を見てくるアミカの視線が気まずくて視線を逸らす。
普段お風呂のお世話をしてもらっている場面を思い出せば、使用人と主人なのだしなにも思う必要はないとわかっていても少しだけもやっとする。実家でお父様とお兄様が誰にどう手伝ってもらっているのかなんて気にしたことはなかったのに、マクス様のことに関してだけ妙に気になってしまう。
「ご心配なさらずとも、クララがお手伝いするのは入浴準備――湯を汲むこととお着換えの用意くらいです。旦那様は基本的に身の回りのことはご自分でなさいますので」
「そうなの?」
「ええ。今日クララがなかなか戻ってこないのは、今朝のことについてドア越しに旦那様を質問攻めにしているからではないでしょうか」
質問攻めとは? と思った私の髪を銀色のリボンでまとめ終えたアミカが小さく微笑む。珍しい表情に驚いて質問し損ねている間に、彼女は私を立たせて「お時間です」と玄関へ誘導したのだった。
玄関に向かうとそこにはもうマクス様が待っていた。湯上りの火照った顔で、制服姿の私を見てまた眩しそうに目を細める。
「ビー、これは私からの贈り物だ」
手を出すように言われ、薄いブルーの石が嵌った装飾のある細いブレスレットを右手首につけられる。その石に軽くキスをしたマクス様が耳元に囁いた。
「困ったことがあったら、声に出してでも心の中ででもいい。これに触れて私を呼んで」
「マクス様をですか?」
「あぁ。必ずすぐに駆けつけると約束しよう」
まぁ、使わないに越したことはないが。
そう言って笑ったマクス様に見送られて、私の魔導学院生活2日目が始まったのだった。
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