第28話

 教室に入ってきた魔導師の先生は、最前列のエミリオ様とミレーナ嬢、そして特別に同席を許されているらしい警護役のお三方とソフィーを順番に見て柔和な笑みを浮かべた。それから視線を後方へ向けるとそのまま動きを止める。

 後ろになにがあるのかしら、とつい振り返ったのは私だけではない。でも、教室の後ろに誰かがいるわけでもなかった。

 ざわついた空気を落ち着かせるように、先生は小さく手を叩く。注目が前に集まったところで、癖のあるはしばみ色の髪を揺らしながらゆっくりと下げた頭を上げると、髪とお揃いの色をしている瞳に優しい笑みを浮かべた。

 

「皆さん、入学おめでとうございます。ぼくの名前はアレクサンダー・アルカノス。気軽にアレク先生と呼んでください。担当は魔導基礎と魔導構成学になります。皆さんが、この学院で存分に学べることを期待してます。我がオクルタティオ魔導学院は、自ら積極的に探求しようとする生徒を心から歓迎します。疑問点があったら遠慮せず質問に来てください。それでは、皆机の上から手をどけて膝の上に置いてください」


 アレク先生の指示通り、みんな机の上から手をどける。

 指示が通ったことを確認したアレク先生が小さな杖を振ると、目の前の机に、どこからともなく一般的な書物と同じような大きさの薄い黒い板が現われた。数人がすぐさまそれを手に取ろうとして


「まだ触って良いとは言っていませんよ」


 先生からの声で動きを止める。


「皆さんもわかっているように、ここは魔術を専門に学ぶ場です。この学院にあるものは、魔法具と言われるものも多いです。ご存じですか? 貴族出身であればご自宅で使われているものがあるかもしれませんね。一般に流通してるものはある程度の魔力があれば使えるようなもの。しかしここで扱っているものは、完全に安全が保障されているものばかりではありません。熟練の魔導師しか触れることの許されないものや、不用意に触れると呪われるような呪物などもそこら中に置いてあります」


 呪物、と聞いて多くの生徒が緊張を顔に浮かべた。


「ですので皆さん、許可が出ていないものに考えなしに触れると後悔することになると、頭の片隅にでも覚えていてください。万が一呪われてしまったりした時には解呪部屋に行ってくださいね。そこまで移動することができれば、の話ですが」


 ニコニコと話される内容が怖い。ここは普通の学校ではないということを忘れては駄目ですからね、というアレク先生の言葉にみんな真面目な顔で頷いた。


「まずはその石板に自分を記憶させてください。方法は――」


 そう言うとアレク先生はローブの下から小刀を取り出し、自分の人差し指に先端を押し当てた。その状態で、先生は生徒たちを見回す。

 ――もしかして、自分の血液を使うのかしら。あれで切ったら痛そうだけど、必要なことならばしなくてはいけないわ。

 つい、どれくらいの傷を作る必要があるのかと自分の指先をじっと見る。神妙な空気になった教室に、ぷっと笑い声が響いた。


「今回の生徒さんたちは素直で良いですね。冗談ですよ。血なんて必要ありません」


 アレク先生は小刀を腰のホルダーにしまうと右の掌を石板に押し当てた。


「このように掌全体を押し当てたら、声に出さなくても大丈夫ですから、石板に対して自分の名前を名乗ってください。認証が済めば、以降その盤面に映るものはご本人にしか見えなくなります」


 さあどうぞ、と促され、全員自分の目の前の石板に掌を押し当てた。ひやりとした感触。教室のそこかしこで石板が光り出すのが見える。私も、と心の中で名乗る。

 ――手を押し当てて、名前を……私は、ベアトリス・イウストリーナ……です。

 しかし、反応はない。どうして? と焦って何度も自分の名前を言うが石板の反応はない。他にも数名反応がない生徒がいる。助けを求めるようにお互いの顔を見合わせるけれど、自分たちでは対処のしようがない。教室を見回していたアレク先生が「ああ、そうだ」と思い出したように言う。


「普段使っている名前ではなくて、正式なお名前をお願いしますね。ミドルネームや、普段は父方の姓だけを名乗っていても正式には母方の苗字も……なんてパターンもありますね。今反応のない方々は、もう一度正式な名前を石板に伝えてください」


 そういうこと、と納得した様子の石板の反応がなかった生徒たちの手元でそれらが光りだす。でも、私の石板はなにも反応しない。魔力はあるとマクス様が保証してくださっているのに、なのにどうして。

 焦る私の横にやってきたアレク先生が、身を屈めると私の耳元に囁いた。


「ベアトリス嬢」

「は、はい。あの、私」

「今のお名前でお願いしますね」

「今の……」


 顔を見上げれば、にこりと微笑んだ彼は自分の襟元についているバッヂを指さした。それは魔導師の塔の紋章が入っていた。


「あ。」


 そうだ。さっき自分でもエミリオ様にも言ったじゃないか。

 ――ごめんなさい。間違ってました。私の名前は、ベアトリス・シルヴェニアです。

 石板に向けて、今の名前を告げる。すると掌に触れている石板が一瞬燃えるように熱くなる。驚いて離しそうになったが、手が張り付いたように離れない。見ている目の前でしゅるしゅると盤の周囲に繊細な模様が刻まれていく。

 ――わぁ……綺麗。

 じっと見ていると、文様が刻まれ切ったところで熱が消え、掌を離すことができるようになった。


「ほぅ……?」


 小さな声で呟いたアレク先生が前に戻っていく。


「では、これで石板の登録が終わりました。明日以降も忘れずに毎日持ってきてくださいね。では、明日の予定を説明します。まずは――」


 綺麗な刻印の入ったそれは、自分専用のものだ。それが嬉しくて、私はずっと石板を眺めていた。

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