第16話

 彼の様子からするに、私がベアトリス・イウストリーナであると気付いてはいないようだ。ならば、正体が明らかになるような言動は避けるべき。声も変わっていないのだから、長い会話も危険だ。

 どのように対応すべきか悩んで黙ってそのお顔を見ていると、オリバー様は優しそうに笑う。深緑の髪に慈しみを湛えたくすんだ淡い緑の瞳がいかにも穏やかな人物に見える。


「警戒しないでください。ぼくは怪しいものではありませんよ。それとも、高価なアクセサリーだから受け取れないと思っているのですか? その程度なら、ぼくの懐は痛みません。遠慮なく受け取ってください」


 そう言うなり、こちらの返事も待たずに今取っておいてもらうようにお願いした髪飾りをお店の人に出すように言って、懐から財布を取り出した。


「いえ、結構です。自分で払いますので」


 ここで彼に支払わせてしまっては、後でなにを要求されるかわからない。普段よりも高い声を出すようにしつつ、財布をしまうようにお願いする。でも、オリバー様は引いてはくれない。ここで恩を売っておいて、デートにでも誘おうという魂胆なのかもしれない。


「貴女はお金を持っていないと店主に言っていたではないですか。このまま売れるかどうかわからないものを持ち続けるというのは、店としても迷惑ですよ。ここはぼくの気持ちに甘えていただければ……」

「おやおや失礼。彼女は私の連れでね。少し目を離した隙に離れてしまったようだ」


 私の手を取ろうとしたオリバー様と私の間に強引に割って入ってきて、その背に庇うように前に立たれたのはマクス様だった。名前を呼びそうになって、この状況が非常によろしくないことに気付く。

 オリバー様は、教会の関係者だ。つまり、今の変装をしているマクス様に見覚えがあるということで――


「……カエラル司祭?」

「うん? あぁ、君は――」

「ご無沙汰しております。司祭長セバスティアン・グラティアの息子、オリバー・グラティアでございます」

「あぁー……」


 面倒な相手に会ってしまった、という雰囲気駄々洩れのマクス様は私をオリバー様の視線から隠す。


「そちらのお嬢様はカエラル司祭のお身内の方でしたか。お困りのようでしたので少々手助けしようかと思ったのですが……余計なお世話だったようですね」

「すまないね。私が少し目を離した隙にこのお転婆なお嬢さんは勝手にふらふら行ってしまったようでね、探していたところだったんだ。呼び止めておいてくれてよかったよ」


 そう言いつつ、マクス様は髪留めの代金にしてはかなり多めのお金を店の女性に渡すと、オリバー様の視線から私を隠したまま「それでは、私たちはこの辺で」そそくさとその場を立ち去る。

 どうするのかと思って不安に思っていたのだけど、その場で小さく手を振ったオリバー様がそれ以上ついてくることはなかった。


「ビーの正体には気付かれていないと思うが、面倒なのに見つかったな」

「……どうしてここにいらしたんでしょう。彼はエミリオ様といつも一緒にいらっしゃるのに」

「嫌な予感がするな。ご実家との約束まではあと1時間ほどあるんだが、少し早いが顔を出してみるか」


 私の実家までは、歩いていくには少し無理がある程度の距離がある。かといって、人目がある中では転移魔法を使うわけにもいかない。路地裏に連れていかれ、ここからどうやって屋敷までいくのだろうと思っている私の目の前に、実家の紋章付きの馬車が止まった。

 扉が開いて顔を出したのはお兄様。誰にも見られないうちに早く、と手招かれてすぐに中に乗り込むとお兄様に抱きすくめられる。


「ビー。辛い思いはしていないかい?」

「大丈夫ですわ、お兄様。昨晩もマクシミリアン様のところで良くしていただきました」

「シルヴェニア卿、妹が世話になります。今回は貴方のような方が手を貸してくださって助かりました」


 マクス様にお礼を口にしたお兄様は再度私を見ると、藁色に変わっているおさげを指先で撫でる。


「これが魔法で姿を変えたビーなのですね。さすがはわが妹、この髪色も若草色の瞳も愛らしい。しかも平民の娘の服に化粧。この姿なら彼女が生まれてからずっと見守ってきた僕でも直ぐには気付けないでしょう。事前に連絡を下さって助かりました。しかし、もう変装の必要はありません。魔法を解いてくださって結構ですよ」


 お兄様の言葉で、マクス様が指を鳴らして魔法を解く。もう少し変装していたかった気もして、もったいなく感じてしまう。しかし私は、そんな呑気な感想を抱いている場合ではなかったのだった。


「その服装では家での話し合いに問題が生じます。なので、まずはこちらへ」


 馬車が向かった先は、サロン・ラディアモル。王都の貴婦人たちに人気の店だけど、オーナーのラディアモル夫人に気に入られた人しか入ることができない。我が家はこのサロンが出来た頃から世話になっていたので問題なく入れてもらえるのだけど……

 ――どうして実家に帰るだけなのにここに寄らなければいけないのかしら。

 そんな疑問は「あの馬鹿が、呼んでもいないのに勝手に来て我が物顔で過ごしやがって……」というお兄様の紳士らしからぬ口調の呟きで解消された。

 先ほどオリバー様が市場を歩いていらしたこと、そして兄のこの苛立ち具合。町娘の格好を見られてはいけない相手が今実家にいるのは確かだった。

 髪を乱暴に掻き乱したお兄様は大きく息を吐いて自分を落ち着かせたようだ。サロンに入ると、お兄様は夫人にお願いしていつも私が選ぶようなドレスを何着か持ってこさせる。好きなのを選んで良いと言われるので、その中でも一番シンプルな装いのものを選ぶ。マクス様もあのままでは良くないだろうといくつか服を見繕ってもらっている。奥で着替えと化粧をしてもらってから戻ると、なにやらマクス様とお兄様が押し問答していた。

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