第13話

 しかし、そんな私を見たマクス様はもう一度「なにもしない」と言って。


「ここはあなたが一人で使っていい。私は隣の自分の部屋で眠るから」

「でも、ここは――」


 夫婦の寝室だと言われた。つまりは、マクス様と私の部屋だ。そんなところを旦那様を差し置いて一人で使うだなんて失礼なことはできない。


「ここはもうあなたの家でもあるんだ。変な気遣いは不要だよ。広くて落ち着かないなら、明日以降はあなたの部屋にベッドを用意させる。が、今日はこれしか用意がないのでね。ここで寝てくれるかい?」

「――はい」


 ベッドに近付けばマクス様は立ち上がって、枕元のベルを鳴らした。

 すぐにメイドたちが顔を出し、寝巻に着替えさせてくれる。その間ご自分も自室で夜着に着替えたらしいマクス様が、メイドたちが部屋を出ていくのと同じタイミングでゆったりとしたガウンをまとった格好で戻ってきた。


「なにか不都合があったら言ってくれ」

「大丈夫です」

「枕の高さや硬さも問題はないかい?」

「はい」


 細かく確認したマクス様は私をベッドに横にさせると優しく布団を掛け、自室に繋がっている扉へと足を進めた。


「部屋の灯りは? 完全に消すかい? それとも薄明かりが好みか」

「真っ暗だと眠れないので、薄明りだと嬉しいです」


 子供のようで恥ずかしいが、見知らぬ場所、広い寝室の大きなベッドで一人眠るのはただでさえ緊張する。全部消してくださいとは言えなかった。

 マクス様がまた軽く指を鳴らす。その途端、部屋の灯りがぐっと落とされた。


「これくらいで大丈夫かい?」

「はい」

「では、おやすみ。また明日」

「おやすみなさいませ」


 パタン、と扉が閉まって、部屋に一人になる。

 不安になるかと思いきや、よほど疲れていたのだろう。私はあっという間に眠りの淵に引き込まれていった。



 存外にしっかりと熟睡してしまったようだ。翌朝目を覚ました私は、微睡みの中で視界の隅になにかを捉えた。

 視線だけをそちらに向け、それがなにかを認識した私の新たな一日は、上げそうになった悲鳴を必死に堪えることから始まった。


 目の前に、キラキラしたつぶらな黒い瞳。

 真っ白い大きな顔が私を覗き込んでいた。


「あ、あの……ええと……おはよう、ございます……?」


 引きつりそうになりながらも笑顔を作ってなんとか言った私だったが、視線が合ったまま硬直している頬を大きな舌がべろりと舐めた瞬間、堪らず大きな声を上げた。


「きゃぁぁぁぁぁぁ!!!」


 その声に驚いたのだろう。昨晩は閉まっていたはずの窓からそれが逃げ出していく。すぐ昨日世話をしてくれてたメイドたちが「どうなさりましたか、奥様!」と部屋に駆け込んできた。


「あ、あれ……あのっ」


 窓を指差した私の指の先を追い、空高く舞い上がっていった姿を確認したクララは


「あらあらぁ、ペガサスも奥様が気になって仕方がなかったのですねぇ」


 なんてのんびりした声を出した。


「あのように、部屋に入ってくることがあるの?」


 毎朝のようにあんな風に起こされるのは心臓に悪い。なるべくなら遠慮させていただきたいと思っている私に「部屋に勝手に入ってきているのを見たのは初めてです」アミカは落ち着いた声で言いながら窓辺まで行くと窓を閉め、振り返って私の顔を見るなりぐっと言葉に詰まった。


「すぐにお風呂をご用意いたします」

「歓迎されてますね、奥様!」

「クララ! お風呂の用意よ、早く」


 なかなか人には懐かないんですよ、魔導師の皆様も触れることを許されてない方が多いんですから! と妙に嬉しそうなクララはアミカに引っ張られていく。すぐにお風呂の準備が済んだとアミカが戻ってきて、朝からもう一度湯につかる。

 ペガサスの唾液でベタベタになっていた私を綺麗に洗ってくれた二人――というよりもクララが一人で「今日はなにをお召しになりますか?」と何着も服を持ってくる。


「私はこれが! 旦那様のお好みだと思いますっ」


 おとなしそうな顔立ちのわりに押しが強いクララに言い切られ、清楚な雰囲気の薄いミントグリーンのドレスを身に着けた私は朝食が用意されている部屋へ案内される。部屋に入った時には、やはりマクス様はもう席についていた。

 手には新聞という世間の出来事がセンセーショナルに書かれているという読み物がある。父が書斎で読んでいるのを見たことはあるが、それにしても今日の見出しは案の定聖女の話のようだった。


「おはようビー。よく眠れたかい?」

「おかげさまでぐっすり眠らせていただきました」


 席に着こうとすれば、新聞を伏せて置いたマクス様が寄ってくる。どうしたのかしら、と見上げれば「おやぁ」と小さく呟いた彼に頬を撫でられる。


「もうクイーンからの加護を受けたのか。早いな」


 ――クイーンとはどなたでしょう。誰からも加護など与えていただいた覚えはないのですけど。

 頬に手を当てられたまま、マクス様に顔ごと向き直る。


「あぁ、クイーンというのはペガサスたちの群れの長のことだよ。本来彼らは気性が荒く、人を寄せ付けないんだがなぁ。あなたを気に入るだろうと予想はしていたが、自分から加護を与えに来るほどだったか」


 なるほどなるほど、と一人納得して自分の席へ戻っていったマクス様は、その後運ばれてきた朝食を召し上がりながら晴れやかな笑みを浮かべた。


「さて。では今日はなにをしようか。ビーは? したいことなどはあるかい? 一晩経ってなにか思いついたかな?」


 さっそく朝から『ベアトリスのやりたいこと』をリクエストされるが、そう簡単には思いつかない。卓上に並んでいる、決して豪華すぎない野菜と果物多めの朝食を食べながら考える。

 やりたいこととはなんだろう。

 幼い頃から妃教育に明け暮れていて、自分でなにをしたいこれをしたいと選んだ経験などほとんどないから、やっぱり思いつかない。

 なんでも言ってくれ、と目をキラキラさせているマクス様の期待に添うべく、したいことを絞り出さなければ、そう思いながらジュースを口にする。

 ――あら。もしかして、このオレンジジュースは朝絞ったものかしら。

 実家で飲んでいるのと似たような味に、ピンときたものがあった。


「あ……」

「うん?」

「行きたいところがありました」

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