男の後悔と嫉妬

春風秋雄

またあの夢を見た

「ねえ春翔、そろそろご両親に会わせてくれない?」

喜美香が言っているのは、そろそろ結婚を考えてほしいということだ。喜美香と付き合いだして4年になる。俺と同い年で、26歳の喜美香が結婚を意識するのは当然だ。結婚のことは俺だって何度も頭に浮かんで、その都度考えている。しかし、どうしても踏ん切れない。まだ26歳という年齢のこともあるし、経済的に安定していないということもあるが、一番は、俺は喜美香のことが好きだが、本当に喜美香のことを、生涯にこれ以上の女性は現れないのだろうというくらい愛しているのだろうかということだった。そう考えると、喜美香を生涯の伴侶に決めて良いのか、自分で答えが出ていなかった。だから喜美香から遠回しに結婚を迫られるたびに、俺は、はぐらかせていた。この日も俺はいつものように

「両親に喜美香のことはまだ話してないから、もう少し待って」

と言って、はぐらかそうとした。いつもなら喜美香は黙って引き下がっていたが、その日は違った。

「じゃあ、今から電話して私のことを話してよ」

「いや、ちょっと待ってよ。こういうのはタイミングってものがあるから」

「春翔がいうタイミングってどういう時なの?」

俺は返事に窮した。俺の困った顔を見て喜美香は言った。

「春翔は私と結婚する気はないんだ?」

俺は否定しなければと思いながら、言葉が出ない。結婚する気はあると言え!と俺はその時の自分に言うが、その時の俺は口を閉ざしたまま何も言わない。

「わかった。もういいよ。もう別れよう」

喜美香はそう言って部屋を出て行こうとする。引き止めろ、追いかけるんだ!とその時の自分に言うが、その時の俺は動こうとしない。喜美香がドアを閉める音がガチャッと鳴った瞬間、目が覚めた。

またあの時の夢を見た。もう7年も経っているのに、何度も何度もあの時の夢を見る。

「春ちゃん、朝ごはん出来ているよ。いくら休みだからと言っても、早く食べてくれないと片付かないよ」

リビングから妻の沙織の声がした。俺は1週間の疲れが溜まった気だるい体に鞭を打って、ベッドから起き出した。


俺の名前は塚原春翔。現在33歳だ。喜美香と別れた時は、青春の一ページが終わっただけだと思っていた。それまで恋愛経験がほとんどなかった俺は、こうやって出会いと別れを繰り返し、そのうち人生において、かけがえのない女性に巡り合うのだろうと思っていた。しかし、その後何人かの女性と付き合ったが、どうしても喜美香のことが忘れられなかった。喜美香と別れてかなり経ったあとで、俺は初めて気づいた。俺は喜美香を本当に愛していた。喜美香こそが「生涯にこれ以上の女性は現れないのだろうというくらい愛している」女性だった。しかし、そう気づいた時には手遅れだった。喜美香は携帯の番号を変えていて、連絡はつかない。住んでいたところも引っ越している。人伝に、喜美香はお見合いをして結婚したと聞いたのは3年前だった。あの時、どうして「結婚する気はある」と言わなかったのだろう。喜美香が部屋を出るとき、どうして追いかけて引き止めなかったのだろう。俺はずっと後悔した。しかし、もう諦めるしかない。そして、俺は喜美香を吹っ切るつもりで、その時点で付き合っていた沙織と結婚しようと考えた。


沙織と結婚したのは2年前だ。結婚と同時に3LDKの中古の分譲マンションを購入した。10階建てでワンフロアーに2戸の、それほど大きくないマンションだ。子供が出来ても良いようにと3LDKのマンションにした。しかし、子供が出来る気配は一向にない。新婚当初は週に1回はあった夜の営みが、いまでは月に1回あるかどうかだった。沙織が淡白だということもあるが、俺があえて求めないということもあるのだろう。性欲がないわけではない。沙織に隠れて風俗へも行く。しかし、沙織に対して欲情するというほどではないというのが正直なところだ。いまだに喜美香のことを引きずっているのかもしれない。それでも夜の営み以外は、良好な夫婦関係を築いているつもりだ。今の仕事も社歴が10年を過ぎ、それなりのポジションで収入もソコソコある。だから沙織が専業主婦に専念していても生活には困らなかった。沙織は結婚するまで中小企業の事務をしていた。特にやりたかった仕事ではなく、とりあえず結婚までの腰掛けというつもりで働いていたらしい。だから結婚が決まったら、あっさりと仕事を辞めた。やりたい仕事に打ち込んでいた喜美香とは正反対だ。喜美香は学生時代に旅行雑誌の出版社でアルバイトをしていたのがきっかけで、フリーのライターをしていた。俺と付き合っているときも全国を旅して、紀行レポートを様々な出版社に寄稿していた。将来は本を出版したいという夢も持っていた。そんな喜美香を見ていて、素敵だと思っていた。だから余計に自分の仕事にまだ自信が持てなかったあの時期は、結婚に踏み切れなかったのだと思う。


しばらく売りに出されていた隣の部屋だが、ようやく買い手がついたようで、朝から引っ越し業者が出入りしていた。夕方になり、チャイムが鳴った。沙織が出ると、引っ越してきたお隣さんのようだ。

「春ちゃん、お隣さんがご挨拶に見えたよ」

と言って俺を呼びに来た。俺は軽く身だしなみを整えて玄関に向かった。ご主人が挨拶の品を持って立っており、奥さんと思わしき人がその後ろに立っていた。

「今日隣に引っ越してきた石橋と言います。よろしくお願いします」

「これはご丁寧に、塚原と言います。うちは妻の沙織と二人暮らしですので、こちらこそよろしくお願いします」

俺がそう言うと沙織が隣で「沙織です。よろしくお願いします」と一緒に挨拶した。

「うちも家内と二人暮らしです。家内の喜美香です」

と言って紹介された奥さんを見て、俺は心臓が止まるのではないかと思った。

喜美香だった。

「喜美香と言います。よろしくお願いします」

そういう喜美香も驚いたのだろう。顔が強張っていた。

7年ぶりに見る喜美香は、今朝夢の中で会ったあの頃と何も変わっていなかった。


隣に喜美香が越してきてから、俺は落ち着かなかった。沙織に対してやましい事は何もない。沙織と出会う前に別れた、単なる元カノというだけだ。しかし、俺の心の中にずっと喜美香がいる、ということが後ろめたかった。それより、俺の気持ちをざわつかせているのは、喜美香の旦那さんを見てしまったことだ。3年前に喜美香が結婚したと聞いた時も、言葉で言い表せない嫉妬心を感じたが、下手に相手の男を見てしまったために、リアルな嫉妬心が湧いてきた。夜になると、壁の向こうで喜美香が、あの男に抱かれているのかもしれないと思うと、胸を掻きむしりたくなる思いだった。何でよりによって、隣に引っ越してきたんだ。


喜美香が引っ越してきて2週間ほど経った頃、帰りの駅で偶然喜美香に会った。同じ電車に乗っていたのだろう。喜美香は俺の顔を見るなり気まずそうな顔をしたが、俺は近寄って話しかけた。

「帰り、遅いんだね」

「今日は入稿日だったから」

そう言えば雑誌の最終原稿を印刷所に渡す入稿日は、いつも遅くなると言っていた。

「俺があそこに住んでいると知っていて引っ越してきたの?」

「そんなわけないじゃない。もし知っていたらあのマンションは選ばなかったわよ。あのマンションは旦那が見つけてきたの」

駅からマンションまで歩いて15分程度だが、その道すがら、俺は色々喜美香に質問した。

聞いていた通り、旦那さんとはお見合いで結婚したということだ。旦那さんは会計士らしいが、事務所はレンタルオフィスで、事務所へ行くのはお客さんとのアポイントが入った時だけで、あとは顧問先へ時々出向く程度で、普段は家で仕事をしているらしい。今の時代、看板を掲げた事務所を出さなくても、インターネットのホームページでそれなりに顧客は集まってくるらしい。趣味が料理ということで、仕事で帰るのが遅くなることが多い喜美香にとっては好都合のパートナーだったらしく、それだけで結婚を決意したとのことだ。

「子供はつくらないの?」

「子供が出来たら、私は今の仕事を続けるのは難しくなるから、まったく予定はない。結婚するときに旦那にも言ってある」

まだそれほど知名度がないフリーのライターなので、こちらの事情で仕事を休むと、復帰しようと思った時に、仕事の依頼が来ない可能性があるということだ。

マンションが近づくと俺たちは、それとなく距離をとり、別々にマンションに入った。特にやましいことをしているわけではないが、同じマンションの人に見られて、変に勘繰られるのが嫌だった。喜美香が先にマンションに入り、喜美香が乗ったエレベーターが動き出したのを確認してから俺はマンションに入った。


喜美香とはあれ以来、話す機会はなかった。土日に駐車場で何回か遭遇したが、いずれも旦那さんと一緒だったので、軽く挨拶をした程度だった。

ある日の朝、駅へ向かって歩いていると、喜美香が30メートルくらい先を歩いているのに気が付いた。喜美香が朝早くから出版社へ出向くのは新しい企画の会議の時だけだ。普段の担当編集者との打ち合わせは昼間か夜に行っている。俺は追いついて話しかけようか、どうしようか迷った。迷っているうちにどんどん駅が近づいてきた。俺は無意識に速足になっていた。やっと追いついたのは喜美香が券売機で切符を買っていた時だった。

「おはよう」

驚いて振り向いた喜美香が俺を見て、微妙な表情をした。

「今日は打ち合わせ?」

「そう。新しい企画の会議」

喜美香が切符を通して改札をくぐる。俺はそれに続いて定期で改札を通った。ホームに出ると、人が列をなして並んでいる。喜美香が並んだ列に、俺も並んだ。電車が来て、俺たちは乗った。朝のラッシュ時に座るところはない。吊革にもつかまれず、俺たちはドア付近に立っていた。

「いつもこんなに混んでいるの?」

「ここはまだいいよ。次の駅でドッと人が乗ってくるから大変だよ」

次の駅では反対側のドアが開いた。人がドッと入ってきて押される。俺は喜美香をかばうようにドアに腕をつけていたが、押される強さに負けて喜美香と密着するような格好になった。あの頃と変らない喜美香の髪の香りに俺の胸は高鳴って来た。喜美香は俺の両腕の間で顔を横に背けている。俺は後ろから押されながらも、何とか下半身だけは密着しないように踏ん張った。しかし、次の駅でさらに人が乗ってきた。俺と喜美香は押しつぶされるようにドアにへばりついた。その時、喜美香の胸の感触が俺に伝わってきた。ヤバイと思った時、喜美香が俺の異変に気付いたようで、上目使いに俺を見て声に出さず「ちょっと!」と口を動かして非難した。俺は喜美香の耳元で小さな声で言った。

「二つ先の駅で少し人が降りるはずだから、もう少しだけ我慢して」


電車で喜美香と密着して以来、俺は喜美香への気持ちが抑えきれなくなってきた。何とか喜美香と話をしたいと思ったが、なかなかその機会がなかった。

喜美香が引っ越してきて半年くらい経った頃、沙織がとんでもない話を持ち掛けてきた。

「お隣の石橋さんの旦那さんが、お客さんからもらった旅館の優待券があるので、良かったらうちも一緒に行かないかと誘ってくれたの」

「お隣さんと4人で行くということ?」

「そう。もちろん部屋は別々だよ」

「石橋さんの旦那さんとはよく話をするの?」

「お隣さんは旦那さんが家事をやっているらしく、買い物をするにはどこが良いかと聞きにきたのがきっかけで、会うたびに少し話すようになったの」

「俺はあまり親しくしていないから、一緒に旅行するのは気が引けるなぁ」

「いいじゃない。私たち新婚旅行以来、どこにも旅行していないのだから、たまには旅行しようよ」

沙織はかなり乗り気のようだ。俺は迷った。旦那さんと一緒にいる喜美香を見せつけられるのは嫌だった。それに何かの拍子に喜美香と俺の関係を沙織や喜美香の旦那さんに感づかれるのではないかという危惧もある。しかし、隙を見て喜美香と話ができるチャンスがあるかもしれないという期待があった。俺が迷っている間も沙織は、ぐいぐいと「行こう」と説得してくる。次第に俺は後者の期待が膨らんできて、沙織に押し切られたという言い訳を自分にしながら承諾した。


旅行先は栃木県の那須高原にある温泉だった。俺はそれぞれ自分たちの車で行こうと言ったが、石橋さんが交通費がもったいないので、自分が車を出すので1台で行きましょうと言い張り、結局石橋さんの車に4人が乗ることになった。石橋さんが運転をし、助手席に喜美香が座り、後部座席に俺たち夫婦が座った。石橋さんはよくしゃべる人で、俺たち夫婦は那須高原へ行くのは初めてだというと、色々説明してくれた。喜美香はほとんどしゃべらず、俺も聞き役に徹していたので、自然と石橋さんと沙織がやりとりするのを俺と喜美香が笑いながら聞いているといった図式になった。

那須高原はとても空気が美味しい。来て良かったと思った。沙織は久しぶりの旅行でテンションが上がっている。喜美香は静かにこの風景を満喫しているようだった。

旅館は想像していたより立派な旅館だった。優待券があるので一人5,000円で泊れるのはラッキーだ。

夕飯は大広間で4人一緒に食べることにした。車の中と変らず、石橋さんと沙織がしゃべり、俺と喜美香が聞き役になるという図式が続いていた。食事が終わり、お茶を飲んでいる時、石橋さんが切り出した。

「実は8時から家族風呂を予約しているのですが、良かったら4人で入りませんか?」

俺は何を言っているのか理解できなかった。喜美香は怖い顔をして石橋さんを睨みつけている。

「家族風呂って何ですか?」

沙織が石橋さんに聞いた。

「貸切り風呂ですよ。50分の時間制なんですが、その間は他の人は入れないということです。景色が良い露天風呂らしいですよ」

喜美香と一緒に風呂に入れるのは嬉しいが、沙織の裸も石橋さんに見られるということだ。バスタオルを巻いて入れば良いのかもしれないが、それでも単なるお隣さんに沙織のそんな姿を見せられない。とても応じられないと思った。しかし、俺たち夫婦が断ったら、石橋さんは喜美香と二人で入るということになる。それを考えると夫婦だから仕方ないと頭ではわかっているのに、やりきれない気持ちが湧いてきた。

「景色が良い露天風呂かぁ。入ってみたいな」

沙織がポツリといった。ダメだ、このままだと4人で入ることになってしまう。俺は慌てて石橋さんに言った。

「俺たち夫婦は遠慮しておきます」

沙織が恨めしそうに俺を見たが無視した。

「そうですか、残念ですね。じゃあ喜美香、一緒に入ろうか」

「私はいいです」

「どうして?せっかく予約したのに」

「私はちょっと外を歩いて、レポートを書く取材をします」

「せっかく旅行で来ているのだから、仕事のことは忘れたら?」

「旅行に行ってレポートを書くのが私の仕事ですから」

喜美香はキッパリと答えた。

「仕方ない、俺一人で入るか。家族風呂は入り口に鍵をかけてしまうから、後から来ても入れないからね」

石橋さんがそう言ったので、喜美香が一緒に入ることはなくなったと俺は安心した。

部屋に戻り、沙織に大浴場へ行こうかと言うと、

「私はちょっと準備があるから、先に行って」

と言うので、俺は先に大浴場へ行った。早めに風呂を出て、外を歩けば喜美香に会えるかもしれないと考え、俺はカラスの行水のごとく風呂から出て部屋に戻ると、当然のことだが沙織はまだ戻っていなかった。俺は外を歩いてみることにした。

旅館の周りをぐるりと回ったが、喜美香の姿は見えない。ひょっとして家族風呂に一緒に入ることにしたのではないかと不安になったが、旅館の敷地を出て、しばらく歩くと、高原を見渡せる場所にポツリと喜美香が立って、ボイスレコーダーに何か吹き込んでいるのが見えた。やはり家族風呂には入らなかったのだとホッとした。

喜美香に近づくと、足音で気づいたのか喜美香がこちらを向いた。俺が来るのを予想していたのか驚いている様子はなく、ボイスレコーダーのスイッチを切って浴衣の懐にしまった。

「良いレポートは書けそう?」

「そうね。もう暗くて周りは良く見えないけど、空気が透き通っていて、心の中の邪念をすべて吸い取ってくれそうな、良いところね」

まるで先ほどボイスレコーダーに吹き込んだ内容を復唱するように喜美香は言った。

「俺、一度喜美香とちゃんと話がしたかった」

喜美香は訝しむ目で俺を見た。

「俺、喜美香と別れたことを、ずっと後悔していた。どうしてあの時引き止めなかったのだろうと、ずっと悔やんでいた」

「もう昔のことよ」

「そう、昔のこと。でも俺は、その昔のことを今も引きずっている」

「今は沙織さんと幸せなんじゃないの?」

俺は幸せなんだろうか?喜美香の問いにすぐには答えられなかった。

「さっきは主人が変なこと言ってごめんなさいね」

「喜美香が謝ることじゃないよ」

「春翔が必死になって断っているのを見て、やっぱり沙織さんを大切に思っているんだと思った」

「大切にというより、沙織に対しては他の男に見せたくないという男の独占欲かな。俺が好きなのは、今でも喜美香だよ」

喜美香は何か言いたそうだったが、その言葉をぐっと飲みこんだ。

そして、一拍開けて、思わぬことを口にした。

「あの二人、ちょっと変だよ。沙織さんを独占したいのであれば気を付けた方がいいかも」

「え?どういう意味?」

「そのままの意味。私も少し探ってみるけど、春翔の方で何かわかったら教えて」

「あの二人を疑っているの?」

「今スマホ持っている?」

「持っているよ」

「ちょっと貸して」

俺がスマホを渡すと、喜美香は操作し出した。

「仕事用のスマホのアドレスを登録しておいたから、何かわかったら連絡して」

喜美香はそう言ってスマホを俺に返すと、旅館へ戻って行った。


部屋に戻ると、沙織はまだ風呂から戻っていなかった。時計を見ると、8時半だった。俺が風呂から戻ったのが8時を少し回ったところだったので、そろそろ帰ってくる頃だろうと思ったが、ふと喜美香が言っていたことが気になり、俺は部屋を出た。家族風呂のところまで行くと、使用中になっていた。貸切り時間は8時から50分間と言っていた。時計を見るとあと15分程度だ。俺は家族風呂が見渡せる場所に身を潜めた。10分ほど待つと、家族風呂の扉が少し開いた。中から石橋さんが顔を覗かせる。俺はみつからないよう身を隠した。石橋さんはあたりを見渡してから後ろに声をかけた。そして扉が開き、石橋さんの後ろから沙織が出てきた。俺はスマホのカメラのシャッターを押した。


喜美香と会うのは1か月ぶりだった。指定された喫茶店へ行くと、喜美香は先に来てコーヒーを飲んでいた。俺が席に座るなり喜美香が言った。

「今日離婚届を出してきた」

喜美香は離婚した。


あの日、家族風呂から出てくる二人の写真を撮ったあと、すぐに喜美香にメールした。俺たちは部屋でそれぞれのパートナーを問い詰めた。沙織はすぐに石橋さんとの関係を白状した。石橋さんはなかなか認めなかったらしいが、俺が「沙織が白状した」とメールしたら、そのあとすんなり認めたらしい。二人は1か月ほど前から関係が出来たということだ。

それぞれのパートナーから話を聞いたあと、喜美香から私は今から車で帰るけど春翔はどうする?とメールが来たので、俺も喜美香に乗せてもらって帰った。車の中で喜美香は、俺たちが想像していなかった恐ろしい話をしてくれた。

石橋さんは喜美香の友達の話から俺の存在を知ったらしい。結婚しても喜美香が自分に距離をとっていることから、いまだにそいつに未練があるのではと嫉妬し、俺の居所を探したということだ。すると俺はすでに結婚していた。いくら未練を持っても無駄だということを喜美香にわからすために、たまたま隣の部屋が売りに出ていたので、そこに引っ越すことにしたということだ。最初は喜美香が未練を持っている男は幸せに暮らしているから諦めるしかないと、わからせるだけのつもりだったが、次第にいまだに喜美香の心を奪っている俺に嫉妬するようになった。だったらあいつの嫁さんを奪ってやろうと、沙織を口説いたということだった。


「俺も離婚するつもりだから、俺たちやり直さないか?」

「でも沙織さんは離婚したくないと言っているのでしょ?」

「不貞行為は離婚事由だから、裁判になれば離婚できるよ」

喜美香は窓の外を見ながら少し考えたあと、俺の顔を見ずに言った。

「ねえ春翔、ホテルへ行こう」


喜美香の体に溶け込み、息も絶え絶えに溺れながら、俺はこの上ない幸せを感じた。まさか、こんな日がまた来るなんて、思わなかった。

「ねえ、春翔」

「なに?」

「春翔は沙織さんとこに戻りなよ。私とこうやったことで、お相子でしょ?」

「俺は喜美香と一緒に暮らしたいんだ」

「私、インドへ行くことにしたの」

「インド?」

「前々から出版社から打診されていたの。しばらくインドで暮らして紀行を書いてくれないかって。すごく魅力的な話だったけど、結婚しているから無理だなって思ってた。でも離婚して身軽になったから受けることにしたの」

「しばらくって、どれくらい?」

「最低5年。状況によってはそれ以上になるかもしれない」

「5年くらい待つよ。俺は何年だって待つよ。俺の人生で喜美香以上の女性はもう現れない」

喜美香は悲しそうな顔をして、静かに首を横に振った。

「あの時に、そう言ってほしかった」



北ウィングという看板を見て、俺は間違いに気づいた。あわてて俺は走り出した。気持ちだけはやるが、足が前に進まない。40歳になると、めっきり体力が落ちた。息があがる。こんな大事な日に限って、どうしてこんな間違いをするのだ。今日の到着ロビーは第1ターミナルではなくて、第2ターミナルだった。息絶え絶えに成田空港の第2ターミナルの到着ロビーにやっとたどり着いた。デリー発の飛行機はとっくに到着している。入国手続きと手荷物を受け取るのに時間がかかるので、まだ大丈夫だろう。

俺は結局離婚した。沙織とのやりとりで1年近くもかかった。慰謝料はとらない代わりに財産分与もなしということで決着した。喜美香とはメールでのやり取りはずっとしていた。その喜美香が7年ぶりに日本へ帰ってくる。迎えに行くとメールしたら、素直に「ありがとう」と返って来た。今度こそ、絶対に、離さないつもりだ。

喜美香がロビーに現れた。変わってない。俺と同い年だから、喜美香も40歳になっている。当然それなりに年はとっているだろうが、俺の目に映る喜美香は14年前と何も変わっていない。

思わず喜美香を抱きしめる。

「お帰り」

「ただいま」

喜美香も俺に抱きつき、そしてヒンディー語で何か言った。

「メーン トゥムセー ピャール カルティー フーン

(あなたを愛してます)」

「何て言ったの?」

「お腹すいたって言ったの」

「じゃあ、何か食べに行こう」

俺が歩き出すと、横から喜美香がそっと腕を絡ませてきた。

外に出ると、秋の風がサーと吹いてきた。新しい季節がやってきたようだ。

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