第37話 雪の山道
霊薬アルカヘスト、残るひとつの素材。
白魔雪の銀花。
わたしは、偶然にもその名を幼いころから知っていた。
シスター・イライザがその名前を口にしたときは、どこで聞いたのだったかすぐには思い出せなかった。
あとから思い当たる。
わたしが孤児院で読んだ、騎士道ロマンス小説の中に登場していたのだ。
それも、わたしが初めて読んだ作品だ。
白薔薇の騎士ナターシャ様の物語のような、有名な小説ではない。
作者不詳で、成立年代も分からない。
いまの王都での流行小説のような立派な装丁や表紙もなく、紙束を細紐でまとめただけの作りをしていた。
王都の書店や宮廷の図書室などでは、同じタイトルを見たことがなかった。
けど、わたしはそれを穴が開くほど、繰り返し何度も何度も読み込んでいた。
わたしが、騎士に憧れはじめる、元凶と言ってもいい一冊だ。
その小説の中に、たしかに書かれていたのだ。
白魔雪の銀花は、
それは、レイデン地方よりさらに南西、この国の国境付近にある山脈だった。
雪を割って、冬に咲く花とその本には書かれていた。
小説の中でも、奇跡をもたらす花として、主人公の騎士の想いびとである、小国の姫君の病を治すために登場していた。
もちろん、それは物語の中の描写だ。
事実である証拠はどこにもない。
けど、実際に月嶺山脈を登りはじめてみて、その描写の信憑性が高まった。
フィクションとは思えないほど
少なくとも、著者がこの山脈を実際に訪れたことがあるのは間違いなさそうだ。
探索には、わたしひとりで向かった。
雪山に慣れないカナリオ村のものを連れてきても、かえって危険が増してしまう。
わたしは騎士隊で訓練を積んでいるし、ここに向かうまで、スペルディアを全力で飛ばしたかった。
残念ながら、地元の人間の中にも、白魔雪の銀花を見たというものはなかった。
その名前さえ、誰も知らなかった。
知らないものの案内を乞うことはできない。
ただひとり、雪の山道を歩く。
さいわい、天候は冬の山にしては、おだやかなほうだった。
ひどく荒れたときは、伸ばした自分の手すら見えなくなるほど吹雪が視界を多い、つのった雪は胸の高さまで達するという話だ。
歩く、というより雪の中を泳ぐような世界になってしまうという。
いまのところ、そこまでひどい状況ではない。
けど、天候がいつ急激に悪化するかも分からない。
そうなる前に、目的を果たして下山したかった。
地元の人が用いる雪靴を履き、毛皮やマントをこれでもかというほど重ね着ている。
目以外は、すべて分厚い布で覆っていた。
それでも、風雪は容赦なく肌を突き刺す。
寒けよりも、鋭い痛みに似ていた。
それすら感じなくなったら、危険だ。
手足の凍傷が取り返しのつかない段階に進んでいる証拠だからだ。
わたしは、たえず手をこすり合わせ、小刻みに足を動かし、感覚がマヒしていないことをたしかめる。
白い雪肌に覆われた高峰の威容は、自然の雄大さを見せつけるようだった。
そんな場合ではないとは分かっているけど、子どものころからずっと憧れていた小説の舞台を目の当たりにして、感動が湧いてくるのも事実だった。
わたしにとってこれは、聖地巡礼と言えるかもしれない。
丁寧に描写された小説の文章は、ヘタな地図よりも確実に、わたしを導いてくれる。
「……すると見よ。深雪にも埋もれることなく、さながら峡谷を割り、天へと突き立てた槍の如き、背の高き三本のモミの樹は、我らが誇り高きナイトを山々の奥へと導いた。……そのさきに見えしは、氷の彫刻の如き、カラマツの樹林であった。……その右手には小高き丘。ナイトにはそれが、銀の月へと連なる、天の回廊とも見えた。……ああ、なんと美しきかな。丘のうえ一面には、月の欠片とも見まがうべき、壮麗なる花が、雪原のうえで輝いていた。それが白魔雪の銀花であった。その奇跡の一輪が、姫君のか細く痩せ衰え、ついえかけた一命を、地上へと繋ぎ止めるのだ」
小説の一文一句を口の中で暗唱しながら、前へ進む。
一度思い出してみると、何度も読み込んだ文章が脳内にスルスルとよみがえってくる。
頭の中に思い描いていた光景。
そのままの、いや、それ以上の景色が目の前に広がっていた。
小説に書かれていたとおり、山脈の中腹に、小高い丘があった。
雪のため遠くは見えないが、きっと晴れた日であれば、周囲が一望できるのだろう。
「……この辺りのはずだ」
風雪の勢いは、山道を登っていたときよりも、さらに弱まっていた。
雲の合間にうっすらと日差しも見える。
わたしは、胸に期待と不安を同時にせりあがらせながら、先を急いだ。
雪にとらわれそうになる足元をもどかしく思いながらも、丘を一歩一歩登る。
けど、丘の頂上付近にきても、どこにも花なんて見当たらなかった。
目に見えるのはただ、寂しげに吹く白い雪と、分厚い灰色の雲ばかりだ。
「……もしかすると、雪に埋もれているのかもしれない」
絶望しかけた心を押し込めるように、口に出してつぶやく。
わたしは雪原を這うようにして、探し回った。
「そんな……はずは……」
もっと、台地の上のほうかもしれない。
似たような、別の丘なのかも……。
すがるように、足元の雪を掘り返しながら探し回る。
どこにも花は見つからなかった。
もっと……さらに、もっと上かもしれない。
ずぼり、と不吉な音が、足元からした。
「あっ……!」
不意に、雪が抜けた。
地面だと思っていたのは、崖の端に生まれた積雪だった。
全身が乱暴に宙に投げ出される浮遊感とともに、わたしの身体は雪の中に投げ出され、落下する。
雪のなか手を伸ばすが、つかめるものは何もなかった。
為すすべなく崖を転がり落ち、背に身を貫くような衝撃を受ける。
――意識が途絶えた。
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