第7話

 僕はアンネを抱き抱え、茂みに隠れながら村を目指した。あの恐ろしい獣が周回している。今は雨も止んだ真昼なので、遠くまで見通せる。近くに獣の気配はない。

「ピクニックみたいだよ、レネお兄ちゃん」

 アンネはうつろな目をして呟いた。少し語尾に甘えが見える。微笑んでいるようだ。日光を顔に当ててやると、眩しそうに目を閉じて口角を上げた。

「君は、いつからあの塔の中にいたの」

「ずっと前から……」

 彼女は目を閉じて、ふるふると首を揺らした。思い出したくないようだ。

 小川を見つけた。水場だ、と僕は喜んだ。喉が乾いていた。木漏れ日が小川を輝かせて見せている。アンネを隣の地面にそっと寝かせて、掌で水を掬い飲む。なんて、美味しい……。アンネが「私にも水を」と言うまで、僕は何度も何度も水を掬って飲んでいた。

 水分補給を終える。アンネの下半身の断面を水につけて、虫やもうダメになった内臓を取り除いた。少し我慢してね、と声をかけておく。アンネは僕の腕に強く縋り付いてきた。水面に臓物が浮かんで流れる。

 あの神官が指差した方角の村は、この川沿いに歩けば着きそうだ。暮らすには水が必要不可欠だから……川の近くに集落はある。


 アンネを大事に抱きかかえる。少し軽くなった。アンネの両腕が僕の首に巻きつき、僕の肩にその顎が乗る。その表情は僕には見えない。癖のあるアンネの髪が僕の鼻をくすぐり、くしゃみが出そうになったけど、出なかった。

 慎重に歩みを進める。木々が少なくなっていった。伐採された痕跡がある。日向に来ると皮膚が痒い。僕は前方のみに注目して歩いていた。ふいにアンネが声を上げる。

「あれ、見て、畑じゃないの? ねえ違う?」

 アンネが言う方向を見ると、そこには耕された土があった。明らかに人工的なものだ。村がある……! 僕は歓声のような雄叫びを喉から絞り出し、急いでその畑の方向に向かった。急いで、というのは、畑がまるで砂漠の蜃気楼のように消えてしまうのではないか、と思ったから。畑の奥に木製の歪んだ建物がある。倉庫か、家か。一人の少年がそこから顔を出した。僕の声に気付いたのだろう。

「ば、化け物……!」

 僕の背後に化け物でもいたのか? 焦って僕はさらに駆けた。少年は「誰か! 皆来てくれ、化け物が出た!」と言って背を向ける。「お兄ちゃん、待って」妹の声が上下に揺れて途切れ途切れに聞こえる。僕が走るからだ。畑を避けて村人を追いかけた。建物の角を曲がったところで、何人かの少年少女がこちらを睨み付けるようにして、僕達を囲んだ。皆手に長い棒や武器のようなものを持っている。

 呆けていると、後ろから頭を殴られた。身体が傾いて、僕は地面に倒れ伏す。抱きかかえていた妹を手放してしまい、妹は地面に落ちていき、転がった。

「や、やめて……私達、人間だよ……」

 今更襲ってきた鋭い痛みに、頭を抱える。思わず呻き声が漏れた。人々は妹の言葉に動揺しているようだ。

 立ち上がろうと動くと、人の影が緊張したように身構えた。

「アンネ、だいじょう……ぶ?」

 妹はこちらに手を伸ばし、目に涙を浮かべて倒れていた。その手を取る。柔らかい女の子の手だ。

「私、大丈夫だよ」

 妹はずるずると這って僕に近寄ろうとした。周りを取り囲んでいる子供達は、中には僕より年上に見える子もいた。

 手を取り合う僕達を見た周りの子供は、うろたえたように口々に「ごめん、てっきり」とか「いらっしゃい」とか言っている。口元を覆って目を背けている者もいる。僕の頭を殴った子供は、バツが悪そうに謝罪していた。ひょろひょろと長い体の男の子だった。

 僕は咳を数度した。声帯が少しおかしいようで、しゃがれたような声ばかり出る。僕達を取り囲んでいた子供達は、少しずつ散っていった。なあ、どうする? と僕達を指差して話している者が残る。

 気味が悪い、と聞こえた。村にいる子供達は、綺麗な体をしていた。中には顔の溶けた者もいたが、少数だ。体中を火に焼かれて黒く焦げたような奴はいない。下半身と引き離された女の子もいない。

 ひそひそ話していた中の一人が、僕らに近づいてきた。髪を一つに括った、そばかすの目立つ女の子だ。

「私はモールス。うちにおいで! もしよければ、この村で暮らそうよ。皆で支え合っているんだ」

 赤みの強い髪が風に揺れる。なんてお人好しなんだろう。それとも、もしかして力仕事でも任されるのだろうか。薪割りとか。得意な方ではある。雨風を凌げるなら、この提案に甘えるのがいいだろう。

「僕の名前は……いや、先に紹介するね。こっちは、妹のアンネ」

 再度抱き抱えたアンネを紹介する。僕の妹の名前。この子の本当の名前を僕は知らない。

「よろしくお願いします。モールスさん、この焼けたお兄ちゃんは、レネっていうの」

 妹は思ったより礼儀正しく挨拶した。僕の名前はレネじゃないけど、この妹の兄は僕だ。だから僕はレネと名乗ろう。これからは。

「レネとアンネね。よろしくね」

 そばかすの少女と握手する。アンネを抱き上げて、同じように握手させようとしたら、モールスはアンネを抱きしめてよろしく、と言った。アンネは少し戸惑っていた。


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