第45話 ――――ダメっ!
「はい、そうです。先生もですか?」
凛は自転車のスタンドを立てると、先生の車の横に行って聞き返した。
「ええ、そうよ。渋滞がすごくて、遅くなってしまって」
「ですよね。ものすごい人でしたから……」
「毎年のことだから、予想はしてたけどね。……えっと、そっちのふたり……あぁ、中村さんのお兄さんね。それと……確か……」
吉村先生は塔矢と桃香を見ながら、記憶をたぐり寄せる。
「熊野です。吉村先生、こんばんは」
桃香は小さく礼をしながら名前を名乗った。
「そう、熊野さんね。ごめんなさいね、授業持ってないと覚えられなくて」
「いえ……それは仕方ありませんよ」
気にする素振りも見せず、桃香は対応する。そんなふたりに吉村先生は提案する。
「歩きみたいだから、ふたり車で送りましょうか? ここまでその履物だと疲れたでしょう?」
桃香は塔矢の顔を見て、意見を求めるような表情を見せた。
それに対し、塔矢は直接桃香の頭に伝えた。
『凛たちを自転車で帰したくないから、断ったほうが良いと思う。それに吉村先生は確か高橋先生と……』
塔矢の意見に桃香はほんの少し頷く。
以前、吉村先生があの高橋先生とふたりで歩いているのを見かけていて、なにか関係がある可能性を疑っていた。
「ご心配ありがとうございます。でも、あと少しで着きますから大丈夫です」
「そう……。わかったわ」
『……ザンネン』
吉村先生は、小さくため息をつきながら溢した。
しかし同時に頭の中に響いた言葉を、桃香は聞き取っていた。
そして、続いて先生は凛の方に顔を向けて言った。
「中村さん、ちょっとこっちに……」
――その瞬間、『――ヤレ』という声――しかも男のものだった――を、桃香ははっきりと聞いた。
それは今までに何度も聞いた心の声。
「――――ダメっ!」
咄嗟に凛の手を引こうと、桃香が手を伸ばす――。
しかし、それよりも吉村先生の手が先だった。
「……ごめんなさい」
凛の眼前へと手を伸ばし、一言、小さな声で謝罪の言葉を紡ぐと、凛は一度ビクッと身体を震わせた。
そして――。
虚ろな目をして、塔矢のほうに体を向けた。
「吉村先生……まさか……」
塔矢は桃香を庇うように立ちつつ、運転席の吉村先生に声を絞り出した。
「……ええ、そうよ。わたしも異能を持ってるの。……中村さん、あなたと同じね」
吉村先生は運転席のドアを開け、車から降りる。
その手の2本のナイフが鈍い光を放っているのを目にして、ふたりは緊張感を高めた。
それまで少し離れたところで見ていたなつめも、突然のことに何が起こったのかと顔を強張らせる。
苦虫を噛み潰したような表情を見せる塔矢だったが、それとは対照的に桃香は必死で頭の中を整理していた。
(……さっきの男の声は間違いなく高橋先生。ってことは近くにいる。……吉村先生は高橋先生に協力してるのかな?)
ただ、前回の
「――君は逃げろっ!」
「は、はいっ!」
塔矢が声を上げると、なつめは急いで自転車に跨って走り出す。
吉村先生は、それに見向きもしなかった。
「……凛を操って何がしたい?」
塔矢が聞くと、吉村先生は小さくかぶりを振って言った。
「……あなたたちが邪魔なの。だから――」
そして、一本のナイフを渡された凛は虚ろな目のまま、それを塔矢に向ける。
塔矢はそれを見ながら、どう対処すべきか考えていた。
(くそ、ナイフを持った2人を相手にするのは、普通にやると分が悪いな……。やるしかないけど……)
相手がひとりならば、うまくやれば取り押さえられるかもしれない。
しかし、それではその間に、もうひとりに刺されるだろう。
通常なら逃げるのが最善手だろうが、浴衣の桃香は走れないのだ。
(なら……先手必勝!)
そう判断した塔矢は、凛……ではなく、吉村先生に向かって駆け出す。
「――は、はやっ!」
薄暗い街灯の灯りの中、一気に距離を詰められた吉村先生が驚いた声を上げた。
その一瞬の後、多少の怪我は覚悟の上で、彼女のナイフを持つ手を掴んだ塔矢は、彼女の懐に入り込む。
――そして、その勢いで加藤の得意な大外刈を掛けつつも、体当たりするようにそのまま道路に押し倒した。
「――――あぐ……っ!」
背中から激しく落下した吉村先生は、肺から空気を搾り出すようなうめき声を上げた。
ナイフがカラカラと音を立てて道路に転がるのを、急いで桃香が拾う。
「――凛は⁉」
すぐに起き上がった塔矢が見たのは、ナイフを持ったまま気を失って倒れている凛の姿だった。
足元の吉村先生は意識があるようだが、痛みで荒い息をしていて動けない状態だった。それが理由で凛にかけた術が解けたのだろうか。
桃香は周囲に警戒しながら塔矢に駆け寄ると、他に聞こえないように小声で耳打ちした。
「塔矢くん、気をつけて。近くに高橋先生がいる。声が聞こえたから……」
「本当か? わかった」
足元に倒れている吉村先生の様子を見ていると、痛みが薄れてきたのか、徐々に息が落ち着いてきた。
それを見た桃香は、先生の上半身を引き起こした。
できるだけ刺激しないように、塔矢は慎重に声をかける。
「……吉村先生。どうしてこんなことを」
「……うぅ……」
しばらく待ったが、吉村先生は無言で頭を左右に振っただけだった。
その沈黙を破った桃香は小さな声で聞く。
「……高橋先生と……関係ありますよね?」
その名前を聞いて、先生の動きが一瞬止まったように見えた。
「――いえ、何も関係ありません」
「そう……。でも、今近くにいますよね。……たぶん、車の中に」
『ナゼソレヲ――』
吉村先生は口を開かなかったが、動揺したことが桃香には分かった。
そのとき――。
――ブオオォン!
停まっていた吉村先生の車が突然走り出した。
「――! ど、どうして……!」
理解できないという表情で、吉村先生はその様子を呆然と見つめていた。
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