第5章

第39話 幸せすぎるにゃ……。

「おはよー」


 土曜日の朝、夏休みの宿題を持って塔矢の家に来た桃香は、玄関先で笑顔を見せて手を振った。


「うん、おはよう。暑いから早く入って」

「ん。お邪魔しまーす」


 塔矢のほかに誰もいない家だが、桃香は律儀に声を出してから玄関に上がる。

 今日の彼女は珍しくデニム生地のホットパンツ姿だ。


「桃香のそういう格好、初めて見たよ」

「でしょ? 久しぶりに履いたもん。……どうかな?」

「足が細いからかな、よく似合ってると思うよ。――うん、可愛いよ」


 そう言われて、桃香は自然と顔がほころぶ。


「んふふ、良かった。ちょっと恥ずかしかったんだよね、ここ来るまで……」


 これほど足を見せる服を着慣れていなかったこともあって、ここに来る途中、どうしても周りの視線が気になっていた。

 しかし、彼の評判が悪くなかったことに、着てきて良かったと思う。


 塔矢に続いて彼の部屋に入った桃香は、すぐに後ろからぎゅっと抱きついた。


「おっと……」


 前も同じようなことがあったなと思いながら、塔矢は肩越しに桃香を見ると、彼女は目を細めて彼の背中に顔を擦り付けた。


「んぅー、ようやく塔矢くんと2人っきり。嬉しいにゃ」


 毎日学校でも顔を合わせているが、2人で会ったのは2週間ぶりで、こうして身体を触れ合うのも久しぶりだった。


「うん。……僕も桃香を抱きしめたいんだけど……」


 背中から抱きつかれた塔矢が手持ち無沙汰で困った顔をすると、桃香は「仕方ないにゃ」と腕を緩める。

 塔矢は体を回して彼女と向き合うと、その細い体をしっかりと抱きしめた。


 しばらくされるがままだった桃香は、顔を上げて小さく喉を鳴らす。


「ん……」


 それはいつも彼女がする、キスをしてほしいという合図だ。

 塔矢はそれに応えると、頬を紅潮させた桃香に唇を合わせ、彼女の後頭部を優しく撫でる。


 キスのあと、桃香は彼の耳に息を吹きかけるように、小さな声で囁いた。


「はぅ……。このままだと宿題に集中できないよ……」

「僕も。……良いよね?」

「ん。もちろん、そのつもりで来たから……」


 塔矢の言葉に桃香はこくりと頷いて、彼より先にベッドに腰掛けると、そのままごろんと寝転がった。


「今日は塔矢くんの好きにして良いよ……」


 そして、桃香は恥じらいながらも彼に両手を伸ばして、小さな声でポツリと呟いた。


 ◆


「……塔矢くんが気持ちよかったみたいで嬉しいにゃ」


 エアコンのついた部屋のベッドで、桃香は彼に寄り添い、頭を擦り付けながら耳元で呟いた。

 彼が何も言わなくても、自分には彼の想いがわかる。

 それが嬉しくて、素直にそれを言葉にしていた。


「うん……。桃香はどうだった?」

「…………むぅ。私も言わなくてもわかるよね……?」


 桃香は口をへの字にする。

 どうだったかなど、塔矢から見ても彼女の表情や声でわかっていた。


「よかった。……でも、桃香の口から聞きたいな」

「う……塔矢くんが意地悪だにゃ。…………気持ちよかったよ、とっても……」


 桃香は顔を真っ赤にして、彼の耳元に囁いた。


「……でもちょっと複雑な気分。……まだ2回目なのに……こんなの、もう1人じゃ満足できないよ。平日は2人で会えないし……」


 それは桃香の本音だった。

 彼と肌を合わせることを知るにつれ、彼がいないと満足できないようになりそうに思えた。


「それは……我慢するしかないよね」

「そうなんだけど……。みんなどうしてるんだろ」

「さぁ……」


 それは2人ではわからないことだった。

 単に我慢しているのか。それとも、そのうち慣れるのか。


「はぁ……知ったらダメなことを知っちゃったよ。……初めて1人でした時も同じこと思ったけど。あはは……」


 照れながら桃香は笑った。

 そんな彼女の頭を片手でそっと抱き寄せて、髪を漉くように撫でると、目を閉じて身を任せる。


「んにゃぁ……」


 しばらくして、桃香はうっとりとした表情で彼に頬擦りすると、彼の頬をペロッと舐めた。


「幸せすぎるにゃ……」


 桃香はそれだけぽつりと呟くと、おもむろに彼に唇を重ねた。


 ◆


 長い長い余韻に浸ったあと、桃香はふと思い出したように聞いた。


「あ……そうだ。塔矢くんって何色が好き?」

「突然だね……。僕は緑が好きかな。深みのある……」

「あ……! あのコップの色……」


 桃香は修学旅行の時に買ったコップの色を思い出した。あのとき、塔矢は緑色のコップを選んでいた。

 そして、桃香はオレンジ色のコップだった。


「そうだね。……じゃ、桃香はオレンジ色?」

「ん。……よく覚えてたね? えらいにゃ」

「あのとき、桃色じゃないんだ……って思ったから」


 塔矢が言ったことに、桃香はぷっと吹き出した。


「あはは、ピンクも嫌いじゃないけどね」

「でも桃香のイメージには合ってるかな。学校だと黒か藍色って感じがするけど」

「そうかな……。そうかも……」


 自分の学校でのイメージを考えると、確かにそう思われても不思議ではないように思えた。


「それで、色聞いて何かあるの?」

「――え? あはは……! それは秘密だよっ」


 塔矢の質問を、桃香は笑ってはぐらかした。


「――ところで」

「んにゃ?」


 桃香の頭を撫でながら、塔矢は話を変えた。


「……もう一回、ダメかな?」

「――にゃにゃっ……⁉」


 一瞬驚いた顔をした桃香だったが、すぐに目を細めて答えた。


「ダメじゃないよ。……今日は好きにして良いって言ったにゃ……」


 ◆


「高橋先生、あれから学校来なくなったね……」


 小さな座卓で向かい合って宿題をしながら、ふと桃香が呟いた。

 塔矢は胡坐あぐらだが、桃香が正坐をしていることもあって、頭の位置は桃香の方が少し高くなっていた。


「うん……。流石に来れないよね」


 高橋先生が異能症であることや、事件を起こした犯人であることなどを、2人は周りに話していなかった。

 話したところで、本人がいなければ証明できない。

 ましてや、異能症と分かっている2人の話をどのくらい信用してくれるのか、想像に難しくなかった。

 それを2人で相談した結果、そうしようと決めたのだ。


「もし学校来てバレたりすると、確実に逮捕されるもんね。姿を見せなければ検査もされないし……」

「僕なら……そのまま学校をやめて、どこかの塾講師でもするかな」


 塔矢は考えながらそう言った。


「ん。……それでまたどこかで同じようなことするのかな」

「だろうね。……でも、先生のってなんだったんだろ?」


 塔矢が聞くと、桃香は今までのことを思い返しながら答えた。


「修学旅行のときに『エモノ』とか『ヤリタイ』って言葉を聞いたし、狙われるのが女子ばっかりだし、この前も私がひとりなの見て襲ってきたから……やっぱりレイプとかそういうのが目的だったんじゃないのかなぁ?」

「普通に考えたらそうだよね……。凛にはそういう形跡はなかったって聞いてるけど……」

「うーん……。最近発症したってことだから、まだ試してただけだとか? わかんないけど……」


 普通に考えると、意識を操ったり記憶を消したりできるなら、どんな犯罪行為でも思いのままだ。

 そういうことを抑止するために、異能持ちの犯罪の罪が重く設定されているが、それでも異能持ちによる犯罪は枚挙にいとまがないほどだった。


「桃香が尋問したらわかるかもね。……と言っても、もう会うこともないと思うけど」

「だと良いんだけど……」


 彼の言葉に、桃香は不安そうな声で小さく呟いた。

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