第一章 金文使い二 亜獣退治

 青年の背後、二十歩ばかりのところに、小さく身を寄せ合ってこの闘いを見守る衆があった。一人はとび抜けて背が高く、肌の色が白く、髭がない。端整な面は女のようだが、体格と服装は男のものだ。

 腰まである長い髪を、耳の上から半分だけ編み上げ、簡素な革の冠を被っていた。

 彼に縋るように、また守るように寄り添い立つ者が四人。いずれも若者で、なかにはあきらかに成人前の少年の姿もある。


 しかし奇妙なのは、目前に危機迫る状況のもとにあって、彼らが意外なほど静かな表情をしているということだ。

 少年も含め、青年と化け物に向けて見開かれた瞳の色に怯えはない。ただ、目の前で繰り広げられる光景を、一つ残らず理解し焼き付けようという、張り詰めた真剣さだけがある。

 その静けさ真剣さは、中心にいる長身色白の人物に於いて最も強い。


 化け物は一度姿勢を低くしたかと思うと、身震いして飛び上がり、青年に襲いかかった。空中で真っ黒な巨体が広がり陽射しを遮る傘となる。

 青年は軽やかに外套を翻してかわした。フード付きの外套のせいで顔は見えないが、風になびいて覗く髪は、深闇色で巻いている。茶色い布に包まれた背には、地味ながら立派な得物も携えているのに、彼は剣を抜こうとしない。

 代わりに、何か金属のいびつな板状のものを片腕に抱えていた。


 化け物は飛びかかっていった先の岸壁に衝突し、傘となった体がなおさら平たく潰れ、表面の文字が波紋のように大きく波打った。


 そこは腸国から膵国へと通じる、龍牢関りゅうろうかんと呼ばれる関所である。

 黄土一色の切り立った崖に挟まれた、天然の要害だ。岩壁と岩壁の間には城壁が渡され、堅牢な関門が両国の交通を塞いでいる。関門の上には狼煙のろしが焚かれ、変事の起きたことを知らせているが、未だ駆けつける者はなく、城中に立て籠もった駐屯兵も迂闊に出てこようとはしなかった。

 青年はただ一人、単なる猛獣とも異なる、この世界に呼吸するいかなる生物とも似つかぬ、奇怪な獣に立ち向かっているのだ。


 岩壁に張り付いた化け物は、反動を利用してすかさずまた青年を襲った。青年は着地した脚を軸に再び跳躍してかわしたが、不意に化け物の頸が長く細く伸びて、牙の形に蠢いている口の部分が青年の胸元に触れた。


 服の布が、触れられた部分だけシュウッと音を立てて溶ける。

 噛みちぎられたわけでもないのに、薄い飴のように溶けるのだ。

 

 そして露出した肌が裂け、獣の表面に纏いついているのとよく似た、文字のようなものがこぼれるように浮かび上がった。青年は苦痛の悲鳴をあげた。だが彼が片手に持った金属板を、音楽を奏でるのに似た指つきでなぞり、それを傷ついた皮膚の上にかざすのを、長身色白の男は見逃さなかった。金属板の一部に小さな光が宿る。青年の傷は瞬く間に修復された。


「やはり彼は金文きんぶん使いだ」


 長身色白の男が呟いた。他の四人が同時にはっと息を呑んで顔を見合わせる。陶器のような男の面が真剣味を増し、玉の汗が一粒、こめかみを伝って流れ落ちた。


 ようやく県令が軍勢を引き連れ崖下の道を進んできた。五十人ばかりの小隊だ。県令は武装はしていないが引き締まった体つきの初老の男で、関門から百歩の所に隊を留めると、数人の護衛だけを連れて自ら前へ出てきた。

 県令は男たちの傍へ行き、拱手して張と名乗った。長身色白の男も拱手きょうしゅして名乗り返す。


「御丁寧に。私は尋炉と申します。こちらは弟子の子春ししゅん子夏しか子秋ししゅう子冬しとう

「では、貴公がかの高名な尾国の尋炉じんろ先生……お噂はかねがね」

「御挨拶はまた後程ゆっくり。少し下がりましょう。ここは、近過ぎる」

 彼と男たちは隊列の先頭付近まで後退した。

亜獣あじゅうですね」

 闘いを続ける青年と化け物を見やり、目を細めて尋炉が言った。

饕餮とうてつですな。亜獣のなかでも凶悪で形がはっきりしとります。この近隣にしばしば出現して、懸賞金がかけられておった一匹です。退治した者には褒賞として腸国の王が黄金五千銭を出すと」

「ああ、それで彼が来たのですね」

「あの青年は賞金稼ぎ? たった一人で」

「我々が関所で襲われかけたところを救ってくれました。身なりからするとそうでしょう」

「兵を崖上に配置して火矢を射かけます。亜獣は鏃を通しませんが、火なら多少の効き目があると聞きました」

「待ってください」

 号令をかけようとした県令を尋炉が止めた。眼差しはじっと青年と饕餮に注がれている。

 青年は崖を蹴って跳ね回り、際どいところで襲いかかる饕餮をかわし続けている。だがけっして闇雲に逃げまわっているのではない。ひたむきに何かを探り、間合いを取りつつ、機を計っているのだ。

「今射かければ彼に当たってしまう危険があります。彼に任せましょう」

「しかし、助太刀もせず見殺しにするわけには……」

「大丈夫」

 尋炉は冷ややかな白い頬に微笑みを浮かべ、確信に満ちた声で言い切った。

「彼は金文使いです」

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