十九輪目

 耳がすごく幸せだ……。

 本当のところどう思っているのか分からないが、高瀬さんは俺のリクエストに次々答えてくれる。


 推しがすぐ目の前で、自分一人のためだけに歌を歌ってくれるこの状況。

 価値観の変わる前だと、一体いくら払えばこんな事が可能だったのだろうか。


「桜くんの番だよ!」


 二人しかいないため交互に歌っているのだが、俺は正直なところそれほど歌が上手いわけではない。

 カラオケの採点機能で八十点前後取れる感じだ。


 それでも俺が歌っているのを高瀬さんが楽しそうに聴いてくれるので、頑張って歌うのだが。


「私たちの歌もそうなんだけど、アニソンは歌うの難しいのに桜くんすごく上手いね!」

「そんな事ないですよ」

「ううん。もっと自信持っていいよ!」


 そこまで言われると少し調子に乗ってしまうが、お世辞であることを忘れてはいけないと深呼吸して心を落ち着かせる。


 よくカラオケに遊び行っていた友達は九十以上を当たり前のように出していた。

 互いに社会人となり、時間が合わなくなって遊びに行けていないが、元気だろうか。


「はい、はい。……いえ、大丈夫です」


 俺がちょうど歌い終わったタイミングで退出十分前の連絡が来た。

 近くにいた高瀬さんが受け答えをし、延長するかこっちを見てきたので首を横に振っておく。


「最後の締めを高瀬さんにお願いしようかなと」

「私としては桜くんに歌ってもらいたいなと思ってるけど?」


 延長を断ったところでマイクを差し出しながら締めをお願いすれば。

 高瀬さんは曲を選ぶ機械をこちらに差し出しながらそう口にした。


 このままどちらも譲らず十分過ぎるのは目に見えて分かったため、デュエット曲を歌うことに。


 デュエットの提案は俺からしたのだが、その時に何故か高瀬さんは一瞬動きが止まった気がした。

 その後すぐに素敵な笑みを浮かべながら提案に乗ってくれたわけだが。


 歌っている時、よく目が合うのは分かるけどウィンクをやめて欲しい。

 本音を言えば嬉しいのだが、そろそろ耐えきれなくて歌の継続が厳しいのだ。

 途中、すでに耐えきれなくて変な声がマイクを通してしまっている。


 なんとか耐え切り、最後まで歌い終える事ができたが、変な気疲れをしたような……。

 でも高瀬さんがとても満足そうな顔をしているため、良かった。


 一つ問題なのは、先ほど出してもらったのでここは俺が、と思っていたけど。


「食事の時も出してもらったのにここもっていうわけには」

「いいのいいの。気にしないで、ね?」


 結局また、高瀬さんに持っていかれた。

 ずっと出す出さないの言い合いをしていても周りに迷惑なだけなので、今回は大人しく引き下がるが。

 このお礼はそのうちなんとかして返そう。


「そ、それでね、その……まだ時間とかあるかな?」

「夕方ですし大丈夫ですよ。どこか行きたいところがあるんですか?」

「え……あ、ごめん、桜くん。やっぱりまた今度、遊んだ時にしよう」

「自分は大丈夫ですけど」


 なんだかとても残念そうにしているが、本当に大丈夫だろうか。

 少し気になるが、駅に向かっているため今更聞くのもって感じである。


「それじゃ、またね桜くん」

「はい、また今度一緒に遊びましょう」


 高瀬さんと別れ、電車に乗ったところでふと思い出した。

 夏月さんと付き合ってること、話すのをすっかり忘れていた。






───

カラオケ

男性は基本的に1:1では入らない(パートナーは別)。

パートナーでない相手と行く場合、相手を好ましく思っていると受け取られる。

デュエットを一緒に歌うのはホテルのお誘いを受けたも同然。

と、女性の間では話が通っている。

男性もなんとなくそのことを察している。


当然、主人公はそれらのことについて知らないため。

カラオケ、デュエットを主人公から提案され、このままいくとこまで行くと思っていた春のショックはでかい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る