第3話 虚数と後悔

 すっかり遠退いた春の気配、命の賛歌が街を彩る頃。

 六月下旬、雨模様が目立ち昼夜問わず虫の音が響く時期。


 おとみやことが通う学園では学期末を控え程よい緊張感が場を包んでいるものの、代わり映えのしない日々が流れていた。


「皆も知っての通り実数とは2,5,9,0,-1,-3,-7等の、+か-で表せられる数字の事だ。そしてこれから教える虚数は確数字の隣にiが付け足され、i,3i,-4i,-7i等で表す」

 ニ年B組の教室内。

 半数程の生徒が睡魔と闘う中、説明を交えながら数学を担当する男性教師が流れる様に数字を黒板に書き出していく。


 「じゃあそもそも虚数とは何か。音宮、分かるかな?」

 そしてチョークを置くと、生徒側へと向き直って琴海へと目を向けた。


「確か、2乗したら0未満になる数のことだったと思います」


「しっかり勉強しているな、一般的にはそれで正解だ」


「一般的に?」

 教師が満足気に頷くも、琴海はその発言に疑問を憶えて訊き返す。

 だが教師は笑みを浮かべてその反応を受け流すと説明を続けた。


「ああ、今のは気にしないでくれ。とは言え、そんな数は現実的には実在しない」


「実在しないなら勉強する意味なくないですかー?」

 琴海の心に生まれたもや

 だが他の生徒による野次が介入した事でそれ以上の追求をするタイミングを見失い、仕方無く意識を授業に戻す。


「確かに駄弁的な数字だし、想像上の数に過ぎないから実用性は無い。数十年前まではね」

 教師は野次の内容を受け容れつつ、含みのある視線を琴海に投げた。

 彼に限らず、南緑須学園の教師達は説明の一部を琴海に振るきらいがある。

 高度な回答を要する場合に限って。


「……確か、レオンハルト・オイラーさんが編み出した、オイラーの等式で有用性が実現されたんですよね?」

 渋々ながらも、苦虫を噛み潰した様な顔で琴海は溜め込んであった知識を口にした。


「その通り! まさかそこまで知っていたとは脱帽するよ」

 わざとらしく教師が目を輝かせる。

 もう当てられたくないため、琴海は目が合わないよう視線を落としてやり過ごすことにした。


「音宮さん凄いね、先生に当てられた問題にまた答えちゃった」

 隣の席のクラスメイトが琴海に耳打ちする。

 授業の妨害にならないよう、こっそりと。


「アハハ……」

 愛想笑いを浮かべるその頬は、気まずさと恥ずかしさから紅潮して。

 期待も尊敬もかわしたい一心で琴海は教科書に顔を隠す。


「さて、オイラーの等式によって虚数が存在すると仮定した場合、これはとても便利なツールとなる」

 チラリと、教師は琴海の背後に視線をなげた。そこには開いた教科書を机に立て、頭を伏せて居眠りを実践する女子生徒の姿。


「zzz……」

 静寂に包まれた教室内に、小さく響くいびき

 喧騒に代わって向けられた周りからの騒がしい視線の中で、当の本人からは悪びれる様子が一切見受けられない。


「実例を見せよう。使い方はちょっと違うが、まぁ応用みたいなものとだと思ってくれ。丁度音宮の席が列の中央にあるから座標0とする。そして黒板に向かってプラスに、ロッカーに向かってマイナスの数値をそれぞれの席にあてがっていくぞ」

 そうして教師は手にしたチョークで生徒を手前から琴海に向かって3,2,1と生徒を指し示し、琴海の背後の生徒から-1,-2,-3と呼称していく。


「さて、音宮の頭上から一メートルにつき座標iとした場合、天井まで三メートルあるからi、2i、3iまで上空に存在する事となる。そこで座標4に立っている私から見て音宮の頭上iに向けこのチョークを投げると……」

 言って教師の腕は頭上に上がり、勢いを乗せてチョークを手放した。


 すると宙を進む小さな円柱は斜線を描きながら琴海の頭上を過ぎ、教科書に隠れた爆睡生徒の脳天にクリーンヒット。


「ンがっ、何だぁ……?」

 チョークが当たり、少し垂れたよだれを拭きながら辺りを見回す女生徒。

 黒いウルフカットの下から覗くつり目気味のパッチリとした二重瞼は未だ微睡みの名残を残し、夢うつつで覚醒しきれてない事がうかがえる。


たかはしかえで!」


「はぃぃ!」

 教師の怒声に眠気を奪われた黒いウルフカットの少女──高橋楓は背筋をシャンと伸ばして正面を向く。


「おはよう、よく寝れたか?」

 教師が笑顔を浮かべて。


「まだ少し寝足りないであります」

 真剣な面持ちで楓が返す。


「バカ! 少しは反省する素振りくらい見せろ」

 教師が呆れ混じりに突っ込んで笑いに包まれる教室。二年B組ではお決まりの光景である。


──キーンコーンカーンコーン

 そんな和やかな時間を仕舞い込むかのように響く、昼休みを報せるチャイム。

 退屈な授業の時間は常に、怒涛の速度で教師教える側のみを置き去りにしていく。


「もう時間か、今日はもうちょい進めたかったけど仕方ない。本日はこれまで!」


「起立、礼」


「「「ありがとうございましたー」」」

 教師による終了の合図を皮切りに、生徒達は束の間の自由へと解き放たれる。

 皆それぞれの昼食を手に、思い思いの休憩所へと散っていく。


「音宮さんって凄いよね」

 琴海が鞄から弁当箱を取り出していると、突如掛けられる隣からの声。

 振り向くと、そこには先程褒めそやしていた三つ編みが似合う丸眼鏡の少女、こんあきが好奇の眼差しを向けていた。


「何がでしょうか?」


「とぼけないでよ〜これまで先生に当てられた問題は全部正解だし、小テストも満点続きじゃん」


「そんな、私なんてまだまだです」


謙遜けんそんしちゃってま〜。でも行き過ぎた謙遜はイ、ヤ、ミ、だぞ♡」


「す、スミマセン」


「あはは、冗談冗談気にしないで」


「はぁ……」


「でさ、音宮さんの勉強法が知りたいんだけど、何処の塾通ってるの? 一日何時間勉強してる??」


「塾は行ってなくて、帰ったらその日の予習と復習を一通りしているだけで……」


「嘘だ〜、そんなんだったらアタイだってやってるよ。何か他に秘訣あるんでしょう?」


「えっと、あの……」


「うりうり〜白状しちゃえよ〜」


「えっとその。何と言いますか、そのぅ」


「悪いけど、琴海にその話題はNGなんだよね」

 琴海がたじろいでいると、助け舟を出すかの様に割り込むさっぱりとした声。

 振り向けばそこにはウルフカットの黒髪が似合う少女。

 つい先程まで説教を受けていたのにも関わらず、その表情は飄々ひょうひょうとしている。


「あ、楓」


「おまたせ琴海、早く飯行こーぜ」

 バンダナに包んだ弁当箱をチラつかせて楓がニカリと歯を見せる。

 完全に空気は会話の切り上げモードだが、知的好奇心が抑えられない秋穂は空気を読まず尚も質問を続けてしまっていた。


「どういう事? 高橋さん」


「人には踏み込まれたくない事情もあるってことさ」

 それともう一つ、と楓は念を押して秋穂に顔を近付ける。


「コンちゃんは大丈夫だろうけど、琴海と親しくしたいなら口調に関しては触れないであげてね。話題にも出しちゃダメ」

 楓が顎の下で小さく✕を作る。

 その所作に愛らしさを感じて秋穂はニッコリ。


「そんなこと、とっくにクラスのみんなも知ってるよ〜。って言うかちょい待ち、コンちゃんってまさかウチのこと?」


「うん」


「何故に??」


「紺野秋穂だからコンちゃん」


「名字の最初の方しか呼ばれてない! せめてもうちょっとマシな呼び方無いの〜?」


「まぁまぁ、何だっていいじゃないか。そんなことより」


「ウチの呼び方に関する話題が雑ぃぃ」


「良かったらコンちゃんも昼飯一緒にどう?」


「へ? い、いいの??」


「うん、個人的には友達って多い方が楽しいし、幼馴染としても琴海に友達が増えるのは嬉しいからさ」


「高橋さん……」

 感激した秋穂は楓の誘いに乗ろうかとも考えたが、楓の背後でソワソワとしている琴海を目にしてその考えを納める。


「ううん。私は購買組だから待たせちゃ悪いし、やっぱり二人で行ってきなよ」


「ええーじゃあアタシ達も一緒に付いて行く。それなら三人で食べれるでしょ」


「いーやいやいやいやそれが申し訳ないんだってばぁ。それにぃ、そう! 実はもう他クラスの子と先約があってさぁ、だからぁ、ね?」


「そっかぁ、それは無理強いできないな。残念だけど行こうぜ琴海」

 楓はちょっと残念そうに眉をひそめて廊下へ向かって歩き出す。

 琴海も後に続いたが、途中で引き返して来ると秋穂向かって柔和な笑みを浮かべた。


「せっかくですし、今度はご一緒しましょう。紺野さんが話しかけて来てくれて私は嬉しかったので」

 そして照れ臭そうに目を細めると、足早に教室を出て行く。


「気にしないでいいからね〜」

 教室を立ち去る二人に手を振って送り出していた秋穂だったが、その姿が見えなくなると机に突っ伏して足をバタつかせる。


「何だよあの生き物共はー! 可愛すぎんだろー!!」

 そんな彼女の様子に呆れながらもサイドテールが似合うクラスメイトが声をかけた。


「そんなに好きなら一緒に昼ごはん行けば良かったじゃない」

 彼女は一応秋穂と腐れ縁ではあるもののそこまで親しくは無いのだが、今回のように秋穂が発作を起こした際、それを納める役回りを担っている。


「否! アタイがあの二人に挟まったら絶対に駄目な気がするからこれで良いのだ」


「ふ〜ん。つくづく難儀な性格してるよね、あんたって」


「へへん! アタイはあの二人を遠くから眺められていれば充分それで幸せなのさ」

 この時の秋穂は知る由もなかった。

 翌日には楓によって拉致され、強制的に琴海達と仲良し三人組を組まされることになると。




✧ ✧ ✧




 毎日のように、誰かが死んでいく。

 知ってる人達が、次々といなくなっていく。

 こうして下校している今だって、何も悪くない誰かが被害に逢っていて……。

 私のせいで、悪夢の連鎖は止まる気配すら見せない。


「クソッ、今度は養豚場んとこのさんがやられてる」


みやさんとこのお嬢さんがあの鳥を村に入れたばかりに」


「シッ、滅多な事を言うんじゃない! 今更あの娘を責めたってどうにもならんだろう」

 大人達が集まってる……また誰かが死んじゃったんだ。

 ごめんなさい、本当にごめんなさい。


「おい、あれ宮間の嬢ちゃんじゃないか」

 みんなが私に気付く。私を見る眼はどれも冷たくて、憎しみに満ちていて。

 そうだよね。怨まれていて、当然だよね。


「アンタがああ! アンタのせいで、うちの家族が、息子が、みんな、みんな、うああああああああああああああああ!!」

 魚屋のおばちゃん。

 前はあんなにも朗らかで、陽気で、よく売れ残りをこっそり分けてくれていたっけ。

 仲良しだったしゅんぺいお兄ちゃんとも一緒に遊びに来てくれていたよね。


 でも今はこうやって私の首を締め上げて、乱暴に揺さぶっていて。

 苦しいな……首が、痛いよ。


「そこまでにしときぃや。わざわざびとを増やすこともねぇが」


「う……うぅ……うあぁぁ……ぁぁ──」

 屍人。大人はみんな、あのオバケになっちゃった人達のことを、そう呼んでいる。

 俊平お兄ちゃんも、もう……。


 私に慰める資格は無いのだけれど。

 でも、目の前で泣き崩れるおばちゃんに何もしないのは、なんか嫌だから──


「触るなああっ!」

 いたい。あれから学校でも、村でも、たくさん虐められたけど、突き飛ばされたのは初めてだな。


 でも、いいんだ。人間では絶対にあの鳥に勝てない事を、みんな思い知っちゃったから。

 だからみんなの苦しみも、哀しみも、憎しみも、全部全部私にぶつけて。


 それが私の受け容れなきゃいけない、罰なんだから。






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