第9話 逃げの一手

「······」


よし、逃げよう。


俺が決意したのは、エティに「ここを使え」と割り振られて放っておかれた豪華な部屋の、浴槽の中だった。


見たこともないほど美しい部屋の中、湯気を立てる浴槽を指し示し、「お風呂入ってね、着替え置いとくから今日は寝て、明日話そう?」と言ったエティは俺の身ぐるみを剥がすとボロきれのようなその服を持ってさっさと出ていってしまった。


そしてとりあえず入ってみたものの。


「······えっと、どうすれば······」


入った瞬間ちょっと形容し難い色になったお湯。

そして入っているのは風呂に入った記憶も経験もない、エティから軽くレクチャーされ、ネーロの体験談を聞いたことしかない俺。


変に動いたら何かを壊しそうで、怖い。

弁償なんてできない、宛もなければ仕事もないから。


「······」


ふと見下ろした、自分の骨の浮き出た細い手を擦る。

それだけで、お湯には新たな汚れが浮いた。

今の今まで水浴びしかしたことがなかったけど、これはなんとも気持ちいい。

汚しちゃダメなのに、思わず気が緩んでずぶずぶとお湯の中に沈んでいった。


「っごぼべばっ!?」


が、瞬時に口の中に汚れたお湯が入り込み激しくむせる。

変なことで自分の味を知ってしまいなんとも言えない微妙な気分になった。


俺は落ち着いて、今度は浴槽の壁にもたれかかって力を抜いた。

おっかなびっくりな入浴もそれなりに様になっているんじゃないだろうか。


そうして、何気なく現実感のない豪華な部屋を見渡す。


「······」


よし、逃げよう。


***


風呂に入った、金目のものが溢れている、ヘンテコな貴族の子供に飼われたりしたくない、俺は自由に行きたい、首輪なんていらない、一人でだって生きていける。


足を進める理由が、段々と長くなっていく。

焦る感情と比例して、まだ湿った足が早くなった。


分からない。

知らない。

それは怖い。

無知は恐ろしいのだと、ネーロが教えてくれた。


ここは、俺の居場所じゃない。


あまりにも美しく、暗く、静かな廊下だった。


ネーロに聞いた貴族の邸宅は、夜でもどこかしらには人気があると聞いたけれど、どうやら嘘だったようだ。

ネーロは嘘をつかないとばかり思っていたが、別にそんなことは無いのかもしれない。


着るものがなかったから着た真新しい服は、触り心地が良すぎて落ち着かない。

素足で踏んでいいのか迷うふかふかのカーペットはあまりにも心惹かれる。

けれどもそれを台無しにするくらいびしょ濡れの頭からしたたる水分が、俺の服や体を冷たく濡らした。

······もう少し拭っておくべきだったかもしれない。


多分、あともう少しでエントランスだ。


頭の中であの部屋までの道のりを逆算しながら、曲がり角を曲がろうとして······ふと探った懐に、お守りの感触がないことに気がついて、愕然とした。

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御伽噺になれない僕らの話 ものくろぱんだ @monokuropanda

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