第3話 盲目の吟遊詩人

薄暗いスラムの路地裏を裸足はだしの足が踏む。

泥やほこりの積もった地面には、子供の足の大きさの足跡がくっきりと残った。


足跡をつけたのは、ボロボロのシーツのようなものを頭からすっぽり被って、足しか見えない子供だ。

顔も見えないので女が男かも分からない。

けれども風が吹いた拍子に覗いた瞳は、黒々とした色をしていた。


少年の名はナナシ。

年はおそらく五か六ほど。

顔立ちは酷く整っているため性別がつかみにくいが、れっきとした男性。

そして、布の下に隠された髪は、洗っていないせいでゴワゴワしながらもどこか艶のある黒。


このスラムにおいて、最底辺にある存在である。


ナナシは今日も腹を空かせてフラフラと路地裏をさまよっていた。

運が良ければレストラン脇のゴミ捨て場に残飯が捨てられる。

奪い合いになったものの欠片でも、見つからずに手に入れば上々である。

下手に見つかったら殴られるだけじゃ済まないだろうが、生きていくためにはそうするしかないのだと、ナナシはよく理解していた。


「う、わっ!」


がくん、と。

足が引っ張られたように後ろに下がって、気がついたら地面に額を付けていた。

一瞬の後に倒れたのだと気が付いて、まずナナシは誰に足をかけられたのかと恐怖した。

ナナシにとって転ぶというのはつまづいて、とか不注意で、とかではなく、スラムの住人が面白がって自分を殴る時にする行為の結果だった。


けれども。

恐る恐る、と言ったふうにナナシが振り返った先には、ただ、死んだように壁に身をもたれさせる男だけしかいなかった。


***


男は赤茶色のボサボサの髪をしていて、長い前髪を編み込むようにしてそれで目元を隠すという奇抜な髪型をしていた。

顔の下半分しか見えないが、すっと通った鼻筋や薄い唇を見ると、随分整っているように見える。

首元には深緑の薄汚れたマフラーのようなものを身に付けている。

服装はそこらの住人よりもよほど複雑な形をしていて、正直着方が分からなかった。


「······大丈夫、かい?」

「ヒェッ」


ナナシは体を跳ねさせた。

死んだように身動ぎもせず動かなかった男から、困惑したような声がかかったのだ。

びっくりするくらいゆっくりした動きで、口元に笑みを浮かべて、男はこちらを見た。

多分、見た。


「目が見えないものでね······僕は音色ねいろ、旅の吟遊詩人さ」


ゆったりとした声で穏やかにそう言って、初めて見るような優しい笑みで、優しい声で、盲目の吟遊詩人ネーロはナナシに微笑んだ。


***


「ネーロ、はい、水」

「ありがとう······でもね、ネーロじゃなくて音色なんだよ」


くすりと困ったように笑って、ネーロが言う。


ネーロは不思議な人間だった。

穏やかで、優しくて、ナナシの黒色が見えないから、その大きな手でそっと頭を撫でてくれる。

初め手を伸ばされた時は怖かったが、今ではすっかりネーロの手のひらの虜だった。


ある日突然ナナシの前に現れた唯一の理解者は、ナナシにたくさんのことを教えてくれる神様みたいな人だった。

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