第14話 湯

「あぁ〜……生き返る……」


 人肌よりもずっと温かい湯に肩まで浸かりながら、俺は思わず銭湯にいるオヤジみたいな声を漏らしてしまう。

 随分と久々の湯船だ。いくら辺境とはいえ衛生観念は別に帝都と変わらないので、入浴自体は比較的頻繁に行ってはいる。

 だがやはり湯は貴重なので、もっぱら桶で頭からかぶる程度。こうして身体を沈めて浸かるなんて贅沢な使い方はかれこれ一年以上やっていない。


「気持ちいいですね〜……、中尉殿」

「ああ、そうだな」


 壁を挟んだ向かいの女湯から、エスメラルダの声が飛んできた。浴室の天井は高く音がよく響くので、彼女が湯船の中で動くたびに水音が聞こえて心臓に悪い。

 俺は大人で、エスメラルダはまだ未成年。そう言い聞かせるものの、年齢だけで考えればそう離れているわけでもないのだ。

 年頃の男女がこうして壁一枚隔てて素肌を晒すともなれば、どうしたってある程度は意識してしまう。


「ふー……」


 俺は深く深呼吸を繰り返して、精神を統一させることにした。意識を壁の向こう――――ではなく己の体内にある魔力の流れへと集中させ、魔力循環のトレーニングを行う。

 これは俺が精神状態を乱された時に落ち着くためのルーチンだった。こうすることで俺は何度も危機を乗り越えてきたのだ。工科兵学校への入学試験も、士官課程への編入試験も、そして昇進するための部内試験でも俺は精神統一を図り、合格してきた。

 ゆえにこの魔力循環はある種のジンクスになっているのだ。これをすれば受かる、というわけではないが。それでも心は落ち着く。


「……よし」


 ザバァ、と立ち上がる。熱い湯が体表を流れ落ち、湯気が身体中からもくもくと立ち上るが、芯まで温まったおかげかまったく寒くはない。


「中尉殿、もう上がられるのですか?」

「ああ。エスメラルダはもう少しゆっくりしていくといい」


 お前の水音が心臓に悪いからな、とは言えない。言えるわけがない。俺を信頼してくれているエスメラルダにそんなことを言おうものなら、俺は彼女の信用を失ってしまうだろう。それはお互いにとって望ましくない話だ。


「それではお言葉に甘えて」


 詳しい経歴を聞いたわけではないからあまりよくは知らないが、確かエスメラルダは戦災孤児だった筈だ。情報通のディートリヒから、孤児院での生活が随分と長かったと聞いている。

 国からの補助金や教会、一部篤志家からの支援で成り立つ孤児院の生活は往々にして厳しい。流石に水浴びすらできないほど経営難のところは少ないだろうが、貴重な湯を浪費することを許してくれるところもまた少ないどころか皆無に近いだろう。

 そのことを思えば、きっとエスメラルダは産湯を除けばこれが人生初の湯船かもしれないのだ。ならせめてゆっくりさせてやろうというのが優しさというものである。


「俺は……少し疲れたし横になるか」


 野宿が続いたところにあの激戦だ。比較的余裕を持って勝利できたのは良いが、流石に心身への負担が少し溜まってきた感じが否めない。

 風呂から上がり、村長の老人に礼を言って俺は客間に引っ込む。客間は一つしかないのであいも変わらずエスメラルダと同室だが、そこはもう今さらなのでとやかく言うこともない。

 村長が用意してくれた寝間着姿で一つしかないベッドに横になれば、急に疲れがドッと出てきた。

 一人では広すぎるベッドいっぱいに手足を抜け出し、深呼吸を一つ。やや冷たいが外よりはずっと温かい空気が肺腑を満たし、疲れた脳と身体を休ませる。


「ふぅ……」


 背中に石の感触が無い睡眠がここまで心地良いものだとは、久しく忘れていた。沈み込むような立派なベッドに包まれて、俺の意識はとっぷりと沈んでいった。


      *



 目が覚めたら、目の間にエスメラルダの顔があった。




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