第2話 新たな隣人

「……」


 黙々と廊下を歩く。


「……」


 その後ろを、エスメラルダはまるで親鳥に付き従う雛のようにてくてくとついてくる。司令官室で挨拶を交わして以降、彼女は一言も喋ることなくずっとこうしているのだ。

 やがて自分の部屋へと辿り着いた時、エスメラルダはまだ俺の後ろをついてきていた。振り返れば、どこかきょとんとした表情で俺の目を見返してくる彼女の姿がある。

 俺は小さく溜め息を漏らすと、エスメラルダに渋々話しかけた。


「自分の部屋に行かなくてもいいのか?」

「失礼ながら、私の部屋はどちらになるのでしょうか」


 そこからか、と俺は肩をすくめる。大佐殿からは「君に任せる」とだけ言われていた。ということはすなわち、彼女に関するすべての面倒を俺が見るということなのだろう。

 それは魔法の指導や士官教育に留まらず、私室の手配や身の回りの世話まで何もかもを含むということだ。


「……わかった。少しここで待っていてくれ」

「はい」


 エスメラルダは律儀に敬礼して、その場に荷物を下ろす。軍人らしく行李こうり一つ分にまとめられた少ない私物は、彼女の私生活の質素さを端的に物語っていた。


 着任したばかりで長々と待たせるのも可哀想なので、俺は急いで主計科へと向かう。年中閑散期と言っても差し支えないこの駐屯地の中でほとんど唯一、他の部隊と変わらず勤勉に稼働しているのがこの主計科だ。

 弾は減らずとも腹は減る。ゆえに駐屯地の衣食住を司る主計科だけは、珍しく真っ当な人間達によって構成されていた。

 先の小競り合い以降、しばらく停戦状態にあるとはいえ、未だ余談を許さない国際情勢である。そんな状況下にあって有能な人材をこのような辺境へと割くのは、実に人的資本の無駄遣いであると評せざるをえないのが正直な本音だ。

 戦時ともなれば、もしかしたら彼らも欠員の出た他部隊に異動となるのかもしれないが、国境紛争の残り火が燻っている程度の現状では主計科諸氏もこの辺境の地を離れられないらしい。まったくご苦労なことである。


 とはいえ、そのような事情は一介の中尉風情の知ったことではない。せっかく使える者がいるのだから、存分に使い倒させていただくとしよう。サボり魔の俺とて仮にも技術士官である。時間は有限ではないのだ。


「失礼。つい先ほど着任したアルトマイヤー少尉のために、空室を一つあてがってやりたいんだが、どこか空きはあるか?」

「これはメッサーシュミット中尉殿。少々お待ちください」


 挨拶もそこそこに単刀直入に要求を申し出れば、仕事のできる主計兵達はてきぱきと書類を持ち出してきて、何やらパラパラとページをめくる。

 ややあって、軍曹の階級章を肩につけていた主計兵がファイルの一部を示して言った。


「着任なされたのは少尉殿と伺っておりますので、兵卒用の官舎ではなく士官用の部屋がよろしいと思います。そうなりますと、中尉殿のお部屋の隣が空いてございますね」

「俺の部屋の隣……いや、まあ確かに空き部屋ではあったが、良いのか? 仮にも年頃の娘だろうに」

「とはいえ、空いているのはそこしかありませんので……」


 悩ましそうな顔をする主計軍曹。哀しいかな、彼の階級ではこの他の案を提示する権限は与えられていないのだ。


「……わかった、ご苦労。エスメラルダが不服というようであれば、また来る」

「かしこまりました」


 軍曹に礼を言い、鍵を受け取った俺は自分の部屋へと戻る。戻ってみれば、そこには先ほどと寸分も変わらない位置で直立不動の姿勢を取り続ける律義なエスメラルダの姿があった。


「すまんが、俺の部屋の隣しか用意できなかった。もし不満があるならどうにかして別の部屋を用意させるが……」

「とんでもございません!」


 最後まで言い終わらないうちに、エスメラルダは食い気味に俺の言葉を否定した。心なしか嬉しそうな表情にも見える。

 こんな冴えない尉官風情の隣室ではさぞ気も滅入るに違いないと思っていたが、意外にもエスメラルダは気にしていないようだった。


「中尉殿にはこれから色々とお世話になることも多いでしょう。ご負担を掛けるかとは思いますが、私的には部屋が近いのは喜ばしいことです」

「そうか、ならいいんだ」


 年頃の少女とお隣さん。言葉の上でだけなら胸が躍らないこともない。だが悲しいかな、ここは戦場ではないにしても軍隊である。そのような青春めいた色恋沙汰とは無縁なのが現実だ。士官学校時代は確かに惚れた腫れたの乱痴気騒ぎも一部で見られたものだが、あの空気感は前線を知らない若者の間でしか醸成しえないものだ。

 俺は既に現実せんそうを知ってしまった。悩ましい隣国との偶発的な国境紛争で、辛い戦場をこの目にしかと刻み付けてしまった。

 ゆえに俺はこの程度のことで気分が上向きになるようなこともなくなってしまっている。それを成長したとみるべきか、それとも擦れてしまったとみるべきかは人によって判断が分かれるところだろう。俺は自分を客観視できていないので、なんとも言えないままだ。


「これが鍵だ。失くすと主計科にこってり絞られるから、管理だけは怠るなよ。……それじゃあ今日はゆっくり休め。明日から色々とお前の面倒を見ることになるが、今日は長旅で疲れただろうからな」

「いえ、私はまだ体力に余裕がありますが……」

「休める時に休んでおくのも軍人の務めだぞ」

「……っ、はい!」


 見事な敬礼をして、素直に自室へと引っ込むエスメラルダ。素直なのは良いことだ。「人格に瑕疵は無し」と評した教官殿の所感にも至極納得である。


「さて、と。明日から慌ただしくなりそうだな」


 軍服の詰襟を緩めながら、俺は小さく溜め息を吐く。明日から俺は彼女を鍛えることになるわけだ。教育者などという慣れない仕事が果たしてしがない一技官に務まるのかは不明だが、軍人たる者、命令された以上は結果を出すしかあるまい。一応、遥か昔に士官学校の下級生を指導した経験があるので、まったくの未経験でないことだけが救いか。

 これが言うことを聞かない問題児であれば気乗りもしなかったのだろうが、幸いにしてエスメラルダは素直ではきはきと意思表示のできる実に模範的な少女である。


 部屋に戻り、机に向かった俺はノートとペンを取り出す。これから指導計画を練らねばならない。どうやら今日はいつものように昼寝というわけにもいかないようだ。





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