はぐれ駐屯地の窓際技術士官

常石 及

第1話 爆弾少女がやってきた。

 目が覚めると、寝汗で背中がじっとりと湿っていた。冷たい寝巻きが、ただでさえ低い寝起きのテンションをさらに不快にさせる。

 まったく、最悪の気分だ。


「嫌な夢を見た……」


 思い出すのは捨て去りたい過去の記憶。どうにもならない絶望というものを味わった人間は、いつになったらそれを忘れることができるのだろうか。


 頭を振って、俺は寝床から身体を起こす。官舎のベッドは硬く、寝心地が良いとは口が裂けても言えないが、それでもまともな寝床が用意されているだけ前線よりはマシだ。


「コーヒーでも淹れるか」


 コーヒーは良い。この僻地で楽しめる数少ない娯楽がコーヒーだ。あの苦くて少し酸っぱい味が、何事につけてもとにかく自由の少ない軍人の舌に馴染んで、どこか感傷的な気分になれるのだ。

 コーヒーを飲めば、雑念に支配された頭も少しはすっきりする。曲がりなりにも研究職などという身分にある以上は、戦道具である頭を冴え渡らせておくのはもはや義務に等しいのだ。


 寝間着を脱ぎ、よれよれのシャツに着替えて、皺の多い支給品のズボンを穿く。洗濯したのはもう随分と前だ。いい加減コーヒーの染みが目立ってきたので、そろそろ洗ってやる必要があるかもしれない。

 もっとも、洗ったところでこの場所には服装にうるさい奴なんていやしないのだ。中尉である自分よりも階級が上の人間なんてこの駐屯地では限られている。駐屯地司令官の大佐殿はそのあたりにはあまり口出ししてこないし、同僚は皆変わり者ばかりだ。

 なにしろここは、第八九〇戦技研究班のみが籍を置く辺境の小規模駐屯地————通称「駐屯地」なのだから。



     *



 コンコン、と自室の扉がノックされた。この軽い音はきっと同僚のディートリヒの奴だろう。ディートリヒ・グーテンベルク中尉。俺の士官学校時代の同期で、未だに親交のある数少ない友人でもある。

 見た目通り中身も軽い奴で、なんでこんな奴が軍隊にいるのか理解に苦しむほどだ。まあ、だからこそこんな僻地に飛ばされるのだろう。この戦技研究班は、名前の通りはぐれ者達が集まる変わり者集団なのだから。


「よう、起きてるか?」


 軍上層部からの命令が記された指令書を片手に、チャラい雰囲気の金髪美男子が断りもなく入ってきた。もし俺が取り込み中だったらいったいどうするというのか。

 むろん、そんなヘマなどやらかしはしない俺であるが、万が一ということだってあるのだ。

 そんな憮然とした表情の俺をよそに、奴は流れるような動作で机に腰掛け、指令書をペシペシと叩きながら俺に話を振ってきた。


「おい、ジン。聞いたか? 新しくこの駐屯地に新米士官が派遣されてくるらしいぞ」

「新人か。どうせ士官学校で何かやらかした問題児だろ? ……まったく、上ときたら厄介者ばかり押し付けてくる」

「ははは、お前だってその厄介者の一人だろうが」

「うるさいな」


 こんな気安い会話ができるのだって、同期だからこそだ。階級は同じでも歳が違えば、ここまで軽い言葉を交わすことも憚られるというものである。


「名前は?」

「エスメラルダ・アルトマイアー少尉。一五歳。士官学校を成績上位で卒業するも、魔法士としての適性に難ありと認め、魔法技術の練成と幹部候補生としての資質陶冶のため、第八九〇戦技研究班への配属を命じる――――だってさ。知ってるか?」

「エスメラルダ……」


 知っている。俺はその名前を前線で聞いたことがある。――――否、俺は彼女をこの目で見たことがある。

 凄い奴だった。当時は民間人で、しかもまだ子供なのに、危機的状況にある友軍をたった一発の魔法で救ってしまった化け物のような少女だ。

 の後、軍に引き取られたと聞いていたが……そうか、あの子はここに配属されるのか。


「喜べ、メッサーシュミット中尉! 彼女の教育はお前が担当することになるらしい」

「なんだって⁉︎」


 危うくコーヒーをこぼすところだった。これ以上服に染みを作ってたまるものか。いくらものぐさの洗濯サボり魔とはいえ、染みだらけの軍服で仕事をしたいと思えるほど無頓着でも衛生観念が欠如しているわけでもないのだ。

 特に前線では衛生状況が生死を左右することだってあるわけで、前線帰りの俺がそのあたりを軽視できよう筈もない。

 とはいえあまり小綺麗にばかりしていても、いざ戦場で泥に塗れた時に泣き言を言っていられないのも事実。何事もほどほどが肝要というわけである。


 と、そこへまた扉をノックする音が響く。今度は礼儀正しく三回だ。おそらく伝令の部下だろう。


「シュテーデル伍長であります! メッサーシュミット中尉殿、大佐殿がお呼びです」

「わかった、すぐ行く! 伝令ご苦労」

「失礼いたします!」


 そう言ってシュテーデル伍長は去っていった。隣を見れば、ニヤニヤと気色の悪い笑みを浮かべるイケメン野郎がいる。


「お呼びだってよ」

「わぁってるよ」


 俺は渋々上着を羽織り、きちんとボタンを留めてから駆け足で司令官室へと向かった。



     ✳︎



「おはよう、メッサーシュミット中尉。その表情だとグーテンベルク中尉あたりから話は既に聞いているかね?」

「おはようございます、大佐殿。はい、つい先ほど新米士官が配属されるとかいう噂を耳にしたところです」

「そいつは耳が早い。情報に敏いのは良いことだな」

「それを言うならばグーテンベルクの奴でありましょう。小官はただ、奴から話を聞いただけにすぎませんゆえ」

「持つべきものは優秀な友だよ、中尉。……まあ、立ち話もなんだ。かけたまえ」

「は、失礼します」


 大佐殿に着席を促され、固辞するのも失礼にあたるので遠慮なくソファへと腰を下ろす。大佐殿は向かいのソファにどっかりと座ると、一つにまとめられた紙束を手渡してきた。


「拝見いたします」


 渡された紙束に目を走らせると、そこにはやはりと言うべきか、エスメラルダ少尉の詳しい情報が記されていた。筆の主は士官学校の教官らしい。軍官僚らしい達筆ながらも時間を惜しむような走り書きで、長々と件の少女の教育記録と所感が書いてある。


 いわく、座学は超がつくほどに優秀。運動神経も良く、白兵戦や射撃のスコアも高い。人格にも大きな瑕疵は見当たらず、士官候補生としてはまずまずの上玉である。

 しかしたった一つ、どうにもならない点があった。それというのも魔法の扱いが壊滅的に駄目なんだそうだ。

 教官氏の記すところによれば、まず魔力をろくに身にまとうことができない。ということは塹壕戦に必須の身体強化魔法も、激しい戦闘時に己を鼓舞するための向精神魔法も発動できないということだ。

 さらには防御魔法も満足に展開できず、攻撃魔法を使わせれば暴発して味方どころか自分自身すらも巻き込む始末。

 悩ましいことに、このように魔法適性は皆無に等しいにもかかわらず、保有魔力量は歴代魔法士と比べても史上稀に見るほどの逸材であるらしい。


 溢れんばかりの才能と、致命的すぎる欠陥。可能性には満ち溢れているけれど、未だ「可能性」の域を出ない不良債権。加えて言えば未成年である。

 軍上層部うえが彼女を持て余して、はぐれ駐屯地なんぞに送り込んできたのも無理のない話だった。


「これは……失礼。なんというか、大変そうですね」

「その大変な彼女の教育を、君に任せたいと思っている」

「理由を伺っても?」


 俺が遠回しに「面倒くさいです」と伝えると、大佐殿は鷹揚に頷きながら華麗にスルーして事情を説明してくれた。


「魔法適性は色々と残念なエスメラルダ少尉だが……彼女は以前、一度だけ大規模戦術魔法の発動に成功しているそうだ」

「それは凄いことですね」


 まるで初めて聞いたかのごとく、驚いたような表情を作って相槌を打ってみせる俺。しかし、たかが中尉風情の大根芝居では、狸親父と名高い大佐殿を出し抜くことなどできよう筈もないのだった。


「時に中尉」


 大佐殿がにこやかな――――しかし目元はまったく笑っていない顔で、こちらの目を真っ直ぐに見据えてくる。


「貴官は、第一〇三独立魔法大隊の生き残りだそうだね?」

「……ええ。誠にお恥ずかしいことながら、おめおめと生き残ってしまいました」


 嘘だ。絶対に死んでやるものかと奮起した結果である。むろん、運の要素がほとんどを占めているわけだが。


「エスメラルダ少尉……当時はまだ民間人だったかな? を保護したのは、一〇三大隊だったと記憶しているよ。…………君はあの戦場で何かを見たのではないかね?」


 これは降参だ。もうはぐらかすのは無理と見た。諸手を挙げて投降の意を示した俺は、すぐさま真面目な表情に戻ると大佐殿に向き直ってあの時あったままの事実を話すことにした。


「大佐殿のご明察なさった通りです。……あの時、小官がエスメラルダ少女の魔法発動を補助いたしました。おかげで今もこうして元気に話をしていられるというわけです」

「やはりそうかね。……上はあの戦いのことになると、途端に無口になるからなぁ。出世街道を逸れてしまった私としては、こうして直接前線帰りの部下に聞くしかないわけだがね」


 大佐などという高級将校でありながら、このような辺鄙な駐屯地の司令官なんぞに収まっているのには何かしらの理由がありそうだ。

 だが今はそんなことはどうでもよろしい。重要なのは、このままでは俺があの爆弾少女エスメラルダの教育を任されることになるという差し迫った事実である。


「まあ、なんにせよだ。そういうことであればなおさら都合が良い。やはり彼女の教育は君に任せよう」

「……は、謹んでお受けします」


 っっっ、クソ狸じじいめが!

 上官として当然のことを言った大佐殿に、これまた当然の反応として内心で怨嗟の声を叫び出す部下おれ。あの時、俺がエスメラルダの魔法を補助したのは、そうしなければ自分と仲間の命が危なかったからだ。

 確実に待ち受ける死か、もしかしたら万に一つの可能性で生き残るかもしれない自殺かであれば、真っ当な生存欲求を持つ人間なら迷わず後者を選択するであろう。俺はそうだったというだけの話だ。

 実際、成功する可能性は限りなく皆無ゼロに近かった。彼女の大規模戦術魔法が成功したのはほとんど奇跡のようなものだったのだ。もし失敗していれば、消し飛んでいたのは敵部隊ではなく自軍であった。そう思うと、今さらながらに寒気がする。


 そんな少女の教育を、俺が? しがない辺境の技術士官風情だぞ?

 おかしい。狂っている。まったく、偉い人の考えることはいつも理解に苦しむことばかりだ。目の前の大佐殿も含めて!


「ふむ、そろそろ来る筈なんだがね……おっと、噂をすればとはこのことか」


 コンコンコン、と礼儀正しいノックの音。今度は実にハキハキとした元気そうな印象を受ける。しかし心なしか、その音に無機質なものを感じたのは気のせいだろうか?


「エスメラルダ・アルトマイヤー少尉、ただいま到着いたしました」

「うむ、入りたまえ」


 大佐殿の許可を得て、扉がゆっくりと開かれる。


 暗い室内でも虹色に輝いてみえる、結え上げられた綺麗な金髪。まだ少し軍服に着せられている印象が拭えない、小柄で華奢な体躯。磁器人形ビスクドールみたいにきめ細やかな白磁の肌に、透き通るようなエメラルド色の瞳。

 その二つの翠の宝石が、真っ直ぐに俺を見据えている。


「…………やっと、会えました」


 桜色の薄い唇から紡がれる声は、以前にも一度聞いたことのある少女のものと何も変わらない。いや、士官学校で揉まれたおかげか、少しだけ幼さが取れているかもしれない。


「紹介しよう。彼が、今日から君の教育担当となるジン・メッサーシュミット中尉だ。少尉、挨拶したまえ」

「はい。……お久しぶりです、メッサーシュミット中尉。エスメラルダ・アルトマイヤー少尉、ただいま着任いたしました。ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いします!」

「……おう、メッサーシュミット中尉だ。よろしく」


 差し出される少尉の手は、柔らかい少女のものだ。強く握りしめたらそれだけで砕けてしまいそうな彼女の手は、少しだけ緊張で湿っていた。

 もしかしたらそれは、自分おれの手汗かもしれない。



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