第三章 誕生した世界
42/J
忘れて良いの?
深波のことを忘れて、自分は幸せに生きることができるのだろうか。思い出すたびに気持ちをねじ伏せて最期まで自分自身を愛することができるのか。そうして生涯を終わらせて、自分は精一杯生きたと肯けるだろうか。
「……私の体は、二つ分……」
彼の命を奪ったのは紛れもなく自分だ。
深波はその身を潤に捧げた。潤を信じ、希望を信じて、全てを犠牲にして、夢を託した。潤は恐ろしい選択をしようとしている自分を恥じる。深波の死を無駄にしようとしているなんて、非常に愚かだ。しかしだ、でも、
「でも」
「今すぐに脱出する。それが、お前のやりたいことだ。俺にはわかる。だって、ずっと一緒に生きてきたから」
判然とした優しい声。
もっと早く原点に戻るべきだった。
潤は大瑚のこの言葉をずっと欲していたのだ。
さっきまで大瑚が泣きそうだったのに今は自分が泣いている。潤はそんな自分に驚いた。彼に泣き顔を見られるのは初めてでとても照れくさい。
「……なんか大瑚、変わったね」
「別に何も変わってない。だから、安心して迷惑かけろ」
とても悔しいが、何故か心は穏やかだ。
「船はあるぞ」
大瑚は強く言った。
「南端監視所探すよ」
潤は嬉しくて無根拠にその気になって張り切り、大袈裟にニコリと笑って大瑚の瞳を凝視した。
「まじである。ついてこい、のんびり野郎」
蔑むように眉を上げて言った彼は考えられないほど気丈で頼もしかった。
ジバを警戒しながら必死に辿り着いた小屋は見晴らしが良く、窓からは細く長い煙が上がっているのが見える。櫂吏たちの仕業に違いなかった。数十分前、大瑚が滝から飛び出してくる直前、森の上から大きな爆発音を聞いた。櫂吏やジバに同行していたものの、仲間であれ敵であれ、もう誰かが犠牲になる光景を見たくなかった。だから櫂吏たちが事を済ませて戻ってくるのを一人離れて待つことにしたのだ。おかげで一番会いたかった人、大瑚に会うことができた。
「お嬢さん、小屋じゃない。わしの家であり監視所じゃ」
「あ、声に出てました?」
「とっても可愛らしい小屋ってお前言ってたぞ。褒めてんのか貶してんのか」
「はっは。まぁ良い。とりあえず二人とも着替えなさい」
慣れた様子で手際よくシャツやパンツを受け取った大瑚はなるべく小さなサイズを潤に渡した。
「ありがとうお爺さん」
「ええんじゃよ」
佐藤鷭は萎んだ口を小さく震わすように微笑んで見せた。
洋服を着替えて戻ると、鷭は望遠鏡を覗いていてその後ろ姿を潤はなんとなく眺めていた。三十年前の写真に写っていた人が目の前にいるのになんだか全く現実味がない。写真よりも遥かに小さな体で痩せ衰え、腰は曲がっているし被っている布帽子から白髪の長髪が垂れている。童話の白雪姫に出てくる小人みたいな風貌だ。この人は本当に南端監視所の主なのだろうか。
「お嬢さん、そうは見えんと思うが、つい最近までそうじゃった」
「全部口に出てるぞ」
湯が沸くのを待っている大瑚の声が台所から聞こえてくる。
「私ったらごめんなさい。疑ってるわけじゃないの。お爺さんは本当にジバじゃないのよね? 鈴木家の親戚なのよね」
「そうじゃ。深波はわしの弟の孫にあたる。君にとっては……」
「うーん、私のお父さんのお兄さんのお嫁さんのお父さんのお兄さん? あってるかな?」
「多分あってるけどマジでややこしい」
大瑚が呟くと鷭は笑った。
「ここってジバたちに見つかったことってあるの?」
「あったら住めておらんよ」
「そうだよね。ここバレなさそう」
大瑚が台所からマグカップを三つ運んでくる。啜った紅茶は濡れて冷えた体に沁みた。
「少なくても今夜はなんとか身を隠せるじゃろう。でも奴らは血相変えて戻ってこない君を探してるんじゃないかい?」
「……そうだね」
「なぁ、そもそも今回、櫂吏はどうして南端を襲ってきたんだ?」
「疑わしい者は早めに処分するって言ってた……。だから、ここに住むゾーオンに何か秘密があったんじゃない? 詳しくは分からないけれど、櫂吏はとっても息巻いてた」
鷭は硬い瞬きをする。
「……彼の正体が、バレたんじゃろうな……」
「彼って?」
この時、潤の問いかけは鷭には聞こえていないようだった。
「もうここへは戻って来ないかも知れない」
朝日が見える前のトワイライト。監視所を後にする時、鷭は言った。
鷭と大瑚に導かれ、潤は海に細長く突き出た断崖の中央に来た。それにしても本当に細長い。ある地点で、鷭は黒くなったファングネイルを短く出しながら岩壁を這って降りていく。やはり岩と海水のみの物寂しい波打ち際で、立派な建物を予想していた事もあってか潤は道中から少し拍子抜けしている。海から上半身を出した薄岩に緩い波が優しく打ち寄せた。その岩陰に隠れるようにして自分たちがいた断崖の根元からニメートル程上に亀裂が入った空間がある。幅は大瑚が体を横にしながら入っていける程度で、とてもじゃないが誰もここに何かがあると思わないだろう。足元では僅かな海水が亀裂の奥へと流れていく。鷭はその空間に身を捻るようにして入っていく。
「わあ」
入って早々、潤から声が漏れた。
一気に十メートル程天井が高くなり、赤茶色の岩窟空洞が現れたのだ。その空洞の中に一筋の短く細い海水の川が流れ、すぐ先に見える緑は反対側の崖壁やその根本に生える木の葉だろう。一見行き止まりのようだが、葉が船の出口を隠しているのだ。それを突き破ると海があって、舵を切って右を向くと地平線が広がっているはず。
そして気になるのは船だ。川に沿うように小さく広がる岩土床の延長線上に布がふわりと落ちていて、鷭はそれをサッと剥がした。
「こいつしか守れんかった」
鷭がずっと守り続けたものが惜し気もなく姿を現す。誰もその存在を知ることのなかった、三十年も昔の船。それは新聞の記事にあった船と比べて非常に小柄で見窄らしく、オールがついた質素な図体だった。この船はせいぜい十人乗りだ。
潤はそっと、古くて滑らかな船側に触れる。
「……このままじゃ、動かん」
鷭は喉に詰まる大きな石を吐き出すかのように言った。
「随分と昔、仲間は自作のモーターを取り付けよった。念入りにスイッチ部分に鍵までつけおって……。鍵が、見つからんのじゃ」
項垂れ、うわずり、弱々しい。よほど言い出しにくかったのか、下げた顔を戻さない。
「は。鷭さん、それは聞いてねえぞ」
何故今の今まで黙っていたのか、尋常じゃない消失感を大瑚は漂わせている。
「脱出不可能、なの……?」
やっとここまで来たのに、どうしてまた絶望しなくてはならないのか。
自分の困惑した声が震えるのを耳にしながら船体を見ると、確かにプロペラがあるのが分かった。それから打つ手無いまま、訳なく鍵穴を確認しようと今度は船内を深く覗いてみる。
その時、──
「俺、これ知ってる」
呟いた大瑚の指先で、船内にペンキで描かれた鋭利に尖った掌の模様を見た。
「鍵、知ってる。おい鷭さん、手形の彫られた短い鍵だろ? なぁそうだろ?」
どうしても手に入れたいのなら、戦うことからは逃れられない。
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