41/D


 見覚えのある景色。それはいつもと変わらず、一寸先で血が流れているのも知らず、変わらず、此処にある。

 

「霧……」


 温風で海水が水蒸気となり広がって、満月は濃霧に隠されている。母家の方を見るがよく分からない。今、大瑚を覆い尽くすのは煌々とした月光を大胆にかき消し、そして躊躇うことなく悠然と広がる霧の海だけである。


──大瑚、今宵は満月だ。天灯滝は月の軌道と重なる。


暗闇の渦の中、そんな声がたった一つだけ届いた。


「……見えねぇよ」


 大瑚は情けなく声を漏らした。憎い。全てが憎い。クソ、などと声を荒げながら何度も水面を叩く。どいつもこいつも身勝手だ。視界を埋め尽くす霧はむしろその広大な迫力に恐怖さえ覚える。


「どうすれば良い?」


 振り出しに戻った気がした。

 腫れた目で、朧げな光の先を見つめる。


「大瑚?」


 そう聞こえて振り向いた瞬間、水が弾ける音がして自分が尻餅をついたのだと分かった。滝壺の中で溺れるようになり慌てて体勢を立て直す。

 大樹の側に影がある。

 霧が流れ、それはだんだんと姿形を現した。向こうも大瑚と同じようにして、大瑚より少し落ち着いてしゃがみ込んでいる。


「……潤」


 懐かしい幼馴染。

 自分は今、一生分の運を使い果たしたのだ。どうしてここに? どうやってここまで? あらゆる言葉が脳を泳ぐ。しかし何も言葉が出ない。大瑚は驚嘆と感動で喉を詰まらせ、それは潤も同じだった。何があって、どうなったのか、そんなこと、もう何でもいい。ただ嬉しいのだ。潤に会えて、潤が生きていて、大瑚はただただ嬉しかった。

 潤は大樹の幹にもたれるように立ち上がり、おもわず滝壺の中へ足を運ぶ。彼女がためらいなく入った時、水中を跳ねるように歩いて瑞々しい音が鳴った。着ていた白のチュニックも紺のスパッツも水に晒される。大瑚も彼女に近づく。彼女の短髪は少し伸びて外へ跳ねて、水滴がビーズのように付いていた。

 潤はすっぽりと大瑚の腕へおさまった。


「会いたかった……言葉にできないくらい、ずっと大瑚に会いたかった」


 大瑚ってこんなにマッチョだっけ、と変わらない笑顔で潤は笑う。変わらないと言うけれど、爆破があってから実際まだ二ヶ月しか経っていないのだ。顔が変わるはずもない。

 しかし大瑚は違和感を感じていた。その違和感が良いものか悪いものかは分からない。ただ、潤がもう何十年も会っていない人のように思えた。拘置所で別れてからの空白の時間がとても怖い。空白と言うのは自分の知らない相手のことだ。大瑚は潤の瞳を覗き込む。


「約束、してたよな? 俺たち」


 キリウが自分を逃した意味を考える。


「約束?」


「この島を脱出するって」


「うん」


 潤の目が一瞬下がったのを逃さなかった。


「それ、まだ有効だよな?」


「うーん」


 彼女は鼻から息を吐くようにして瞬きをすると、たまらない寂寥感が大瑚の胸中に広がった。

 

「もう誰かが傷ついて、崩壊する場所にいたくない。戦いたくない。私、大人になったかも」


「大人……」


「私、夢ばかり見て、現実から目を背けてた。絶対に脱出するって使命感に燃えて、罪のないゾーオンを巻き込み殺しちゃった。陽一郎さんは血を絶やすなって言ったけど、なんで? なんで絶やしちゃいけないの? 私たちがいなくなった町は驚くほど平和だったよ。私たちが消えて、ほとんどのゾーオンが幸せに生きてる。間違っていたのは私たちの方なんだよ」


「……」


「私ね、櫂吏と婚約したの。あの人の側にいて不自由なことって別にない。ジバたちにも良くしてもらってるんだ」


「……」


「……それに、この島に船は無いみたい。ここを出るとしても船製造に何年かかるか分からないし……だから今すぐに脱出するのは無理だと思う。私は今の生活に何も困ってない。ジバでないハイマは根絶して正解なの。それに私は自分ひとりじゃ何もできない臆病者。それなのに使命だの夢だの重荷すぎるし、実現するには中途半端で覚悟がない。弱いの。そんな奴には無理なの。私には無理。ジバが島を統治した今、もちろん下手な真似はできないけれど、不自由なんて無いし、それで充分だと思う。大丈夫。時間が経てばそのうち全て忘れるから」


 潤の消極的で露悪的な発言は大瑚の顰蹙を買った。


「忘れることができるのか?」

「知らない」

「忘れることができるのかって聞いてんだよ。俺は正直、脱出とか海の向こうとかどうでも良い。どうだって良い。お前が幸せで俺が楽しけりゃそれで良い」

「じゃあそれで良いじゃない」

「いや、さっきから言い訳にしか聞こえない。諦めにしか見えない。お前がこれまでの自分を否定するということは、深波のことも否定するということだ」


 潤の眉毛がピクリと動いた。


「深波のこと、忘れられるか……?」


 語尾が震える大瑚は昔から涙脆い。


「忘れて良いのか?」


 

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