40/D





──おい、おい、お前たち、起きよ。


 老爺の乾いたピーキングに重い目蓋をゆっくり上げる。口元に寄せたキリウの前髪がモゾモゾと動き腕からすり抜けていくので、彼にも同じのが届いたと分かった。両膝をつき項垂れるようにして鼻元を摘んでいる。フーのいびきがうるさく、レインは本を手にしたまま柱に寄りかかって寝ている。廊下側の半透明の窓から感じる外はまだ真っ暗だ。



──あいつらが見える。驚くな、数はいつもの四倍じゃ。



 キリウの動きがピタリと止まる。数十分も経たないうちに恐ろしいことが起きようとしている。大瑚は冴えない頭で理解し、泥を落とすように自分の顔を片手で拭った。

 深夜二時、レインは階段を駆け上がり上階にいる女と子供のもとへ向かう。

 大瑚が廊下から平地を見るとキリウが無線屋外受信機を引き摺り下ろし、それを壊していた。


「なぁフー、あいつ何やってんだ?」


「あれは……爆弾だ」


「おい! 荷物は最小限だ。今すぐ裏へ集まれ」


 誰かがそう叫んでいる。

 女や子供は素早く待機場についたようだ。大瑚はそこへ向かう途中、苛立ちを隠せないでいた。


「は? なに考えてんだお前」


 キリウはみんなを逃すと言った。しかし、自分は残ると言う。この後に及んで目の前の相手はここを離れないと言っているのだ。


「お前は自分が正しいと思っているだろ」


 表情少なく、大瑚を見て彼は諭す。何故自分が責められているのか大瑚は納得いかない。


「少なくともお前よりは正しい」


 様子を見兼ねたレインがこっちへ来る。


「大瑚よせ」


「なあレイン、本当にこのままでいいのか? 自分たちのリーダーだろ」


 犬死するのが目に見える。しかしレインは黙ったままだ。むしろキリウに賛同しているようにも見える。


「ああ、お前は正しい。お前の世界の中で、お前は正しい。良いことじゃないか」


 キリウは微笑んだ。


「笑うな。どうして笑う」

「可笑しいからだ」

「何が可笑しい? 笑える立場じゃねぇだろ」

「笑える立場だ。俺は俺の世界で、今、笑っていいと言われている」

「現実から逃げるな」


 彼は、何を言われているのか分からない、という風に大瑚の目を見つめた。


「現実と向き合え」

「向き合っているじゃないか。今、お前と」

「だったら現実を見て、俺に従え」

「現実を見て、お前に従うつもりはない」

「通じねぇな」

「当たり前だ。世界が違う」

「さっきから『世界』ってなんだよ。くだらねえ。それが現実逃避って言うんだよ」

「残念だが『世界』が違うが故、お前の『正しい』は俺の『正しい』じゃない。だからってお前は間違っていない。少なくともお前の世界ではお前は『正しい』からな。だが、同時に俺も間違っていない」

「……」

「俺はここで拾われ、ここで育ち、全てを捧げた。お前には関係ない場所でも俺にとっては違う」


 分かっていたつもりだった。ここが彼の居場所だということを。

 この選択は彼の美学だ。


「……一つ言うことを聞け。俺も一緒に戦う」

「よせ、お前はよそ者だ」


 レインはすかさず言い放った。眼光鋭い彼の目は薄く水を張っている。


「大瑚、お前は本当にジバから逃げる為だけにここまで来たのか? お前にも守りたいものがあるだろう」


 そう言ったキリウに表情はない。


「……ねえよ」


 この苛立ちを抑えることができるのは戦うことしかないと思う。一瞬の僅かな暇を持て余す子供たちの笑い声が流れてきた。

 キリウの目がレインを捉える。


「あとは頼む」


 キリウに言われ、背を向けたレインはみんなの元へと足を動かした。




 地下空洞へ促された大瑚はゆったりと階段に立つ相手を見上げる。もうジバが着くだろう。

 段差を利用し、重力を利用し、キリウからくる唾液が旨い。もうすぐ死ぬかもしれないのに自分たちは何をやっているんだろうか。

 そのままもっと体重が乗り、押し攻めるように口づけをするキリウの好きなようにさせる大瑚の両手も馬鹿みたいに彼の腰部や臀部を撫で回している。押されて絡れながら、後頭部も背部も煉瓦にぶつかるが大瑚は何も気づかない。

 狭間で一瞬離れた時、キリウと自分の間に線が見えた。線は微動だにしない。


「……おい……」


 キリューは檻の扉を閉めたのだ。


「おい」


 レバーを引くと、階段の手前で背を向け立ち止まっている。


「なんだよこれ」

「流されやすい」

「開けろよ」

「浮くのが嫌い、嫌われるのが怖い」

「聞いてんのか!」

「そのくせ自分勝手」

「クッソ……開かねぇ」

「よって中途半端」

「なあ」

「あとはそうだな」

「キリウ」

「優しすぎる」

「……何考えてる?」


 遠ざかっていく。


「おい! 開けろよ!」


 大瑚は何度も叫んだ。

 ジバたちが到着したのが地上の気配でわかった。


「俺も連れて行け……頼むから……」


 届かない。


「キリウ」


 激流とジバたちの喧騒が入り乱れ、自分の声すら聞き取れない。


「俺、お前が羨ましかった」


 水槽の中にいるような世界で、階段を登る彼が振り返ったように見えた。だがそれは一瞬で、再び遠ざかっていく。薄く細い背中は泣きながら笑えるくらい異様に強い。粒子のように軽そうなのに金属のように光って見えるのは何故だろう。

 絶対に手に入れることができないものが、この世にはあるのだ。


 また自分は潜るのか。

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