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「その船の写真に私は写っていませんでしたか?」

「え……?」


 潤は先日の集会で櫂吏が船のことを話していたのが気になって仕方なかった。意を決して、櫂吏に三十年前の船のことを尋ねたのだ。自分たちが生まれる前のことを、島に隠されているかもしれない船の手がかりを掴もうとした。


「残念ですね……私もいたはずなんですけれども」


 櫂吏はたまらず思いはせる。彼はもともと侵略者などではなかった。


「私は独自の文化を築きあげたハイマ島を調査するため本土から派遣された身でした。私以外の十数名の志願者と共にこの島へ来たのです。その頃のハイマ島はとても良かった……本来私がいるべき場所だと、私の故郷だと思いました……」


 羽の破れた紋白蝶が櫂吏の肩にとまった。


「当時、彼らは漁船造りに奮闘していて、私たちの中には船を製造する技術者もいましたから、皆で一緒に協力したものです。写真は丁度、その頃のものでしょう」

「そんな時代があったなんて……あんたと鈴木陽一郎は交流があったのね」

「ありましたよ……その頃は彼の父親が町長で、陽一郎は父親に従順で素直な人でした」

「その船たちは今どこに?」


 櫂吏は早まる潤の瞳を見つめ返す。


「全て破壊されました。彼らが自ら破壊したのです……本土の命令で……勿体無い」


 潤は愕然とした。

 船は脱出するための最後の希望だ。そのたった一つの希望を信じて生きてきた。自分だけでない。希望を信じて死んでいった深波も、希望を胸に今もどこかで生きている大瑚も、自分たちがおこなってきたことは無駄だったのか? 初めから無駄だったのか? 使命を果たす方法はもうどこにも無い。このままでは自分たちは報われない。


「船がどうかしましたか?」

「……いや……」


 何か、何か他に方法はないのか。他に使命を果たす方法はないのか。深波を救う方法はないのか___このままでは何もできずに終わってしまう。深波によって生かされてきたこの身なのに彼のために何もできない。自分は本当に情けない。

深波は自身の未来を犠牲にし、潤を救った。それなのに彼の夢を叶えてやれない──。


「亜沙」


 悔しい。自分は無能だ。


「亜沙」


 絶対に泣かない。

岩壁の薄暗い部屋。

ふと日光の香りに包まれる。

 包まれて、自分に相応しくない暖かさが広がる。


「もう頑張らなくて良い。君は充分、ここにいます」


 絶対に泣かない。


「船は必ず、蘇らせてみせますから」


 そう。決めたら絶対に泣くことなんてなかった。それなのに自分は自分の言うことを聞かない。言うことを聞かないのが気に食わなくて自分の髪を引っ張る。しかし日光の香りは一段と強くなる。気づけば櫂吏の肩が驚くほどに濡れている。驚くほど暖かい手が自分の髪を撫でている。自分は彼にしがみついて、その体を叩いている。子供のように酷い声を上げながら、酷くみすぼらしく暴れている。しかし日光の香りは離れない。暖かい。暖かいのが離れない。身体中が包まれる____実家のベランダにいるようだ。白いカーテンが揺れる。母が干していた布団を入れ、その上に乗った。気持ち良い。母は自分と兄を乗せた布団を廊下で引っ張り動かした。乗り物みたいで楽しい。自分は兄と笑っている。母も笑っている。日光の香り。良い香り。


「私と共に生きませんか?」


 頰を包まれ、彼が近づいてくる。早く逃げなきゃ裏切り者になる。何に対して? 深波と大瑚? 違う。これまでの自分だ。使命を果たし、夢を叶えるのではなかったのか。自分を生きようとした自分を裏切るのだ。この男に流されるのだ。この男に自分の心が流れていく。恐ろしい。自分は何者にもなれないのだ。唇が重なる。櫂吏の首に手を回した。大丈夫。彼は船を造ると言っていた。いつになるかは分からない。しかしその日が来れば脱出できる。諦めたわけではない。その日が来れば、脱出しよう。だからその日まで、こうしていよう。大丈夫。いつか必ず。

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