36/D

淡い朝日が谷上を覆う雲の姿を浮かび上げる。空谷の向こうに一つの山、そしてわずかに確認できる海がある。昨夜は全く眠れなかった。


「あの上だ」


 キリウは山景を指差す。

大瑚は自分たちとほぼ同じ目線上に分厚い雲を下から上へ突き抜けるようにした細長い岩の影を見た。


 大瑚は驚きと感心で一瞬言葉が出なかった。

 危なっかしくそびえる石灰岩の一枚岩はその高さ約五十メートル。その上の僅かな空間に木々や植物が茂っている。「あの上」とは細長い岩が目印の山の上だと思っていたが、まさかその「岩の上」だなんて、なんておっかない眺めなのだろう。

 岩の両サイドには長く垂れた簡素な梯子がぶら下がり、キリウはそれを登って行く。面倒な大瑚は頂上まで岩をよじ登った。立ちはだかる緑をかき分けると煉瓦壁が積み重なっているのが見えた。青い屋根瓦の小さな家だ。それを包み込むように広がる枝分かれした幹があらゆる角度に曲がりとても奇妙。

 地上はこれから雨だな、と呟きながらキリウが流木の取手が付いたドアをノックする。


「開いておる」


 嗄れた声。大瑚にとてつもない緊張が走った。

 足を踏み入れたそこは煉瓦壁の隙間から風が入り込み、ひんやりとした涼しさに包まれる。


「バン爺、久しぶり」


 縮れうねった白髪を垂れ下げた後ろ姿が目の前にあって、小刻みに肩が揺れている。その奥で、丁寧に手入れされている艶のある望遠鏡が壁を突き破るように設置されていた。この望遠鏡で見たジバの姿をキリウにピーキングで伝えているのだ。

 生きているのが奇跡のような百十一歳の老爺はゆっくりと、振り返る。そしてゆっくりと、微笑んだ。ハッとするような深いしわが顔中に刻み込まれている。

 大瑚は短く息を吸った。肺がきつい。きつくてどうしようもない。やっと会えたのだ。泣きそうになるのをぐっと堪える。針金のように脆いまるぶち眼鏡の奥で、淡水色の瞳がキリウを見て、それから大瑚を見た。


「どちらさんかな?」


 口を開こうとして、空気が入る。そしてまた肺がきつい。溺れたように鼻が痛い。


「佐藤鷭。俺、あなたに会うためにここへ来ました」


 鷭は大瑚をじっと見ている。


「潤と深波と約束して、俺、ずっと、ずっと、約束して、ここまで」


 二つの名前がより涙腺を刺激する。


「深波……君は彼の友達なんじゃね」

「はい」

「そうか、よくぞここまで」


 鷭が深波に会ったのは一度しかないが、彼の内向的な性格を見抜き精神面の心配をしていた。しかし深波にも友達がいた事実を知り、素直に嬉しかったのだ。


「俺、彼らと約束してるんです。この南端監視所で落ち会おうって。俺たち、あなたに聞きたい事があって」


 大瑚がそう言った時、鷭の表情が曇った。


「大瑚、その深波って、鈴木陽一郎の長男だよな」


 話の途中から目を伏せていたキリウは続ける。


「鈴木深波はこの間処刑された」

「……は……?」

「もうこの世にはいない」


 キリウの顔を見ているはずなのに見えない。痺れたように体の感覚が無い。

 深波が死んだ? ありえない。有言実行の男だぞ。島代表の息子だぞ。彼は強い。死ぬわけがない。死なない。ありえない。嘘だ。嘘だ。絶対に。約束した。彼は言った。彼は使命を果たす。そして、彼は夢を叶える。


「船のことを聞くって、あなたに船のことを聞くって、そんで、脱出するって言ってました。それが使命だって、鈴木家の血を絶やさないって」

「大瑚」


 詰め寄る大瑚の腕をキリウは掴む。


「悪い、俺の伝え方が違った。落ち着いてくれ」


 鷭と距離をとった大瑚はドア横の煉瓦壁に肘をつきながら自分の前髪を握り潰した。


「……船」


鷭の目は揺らいでいた。


「船、と言ったな」

「……はい。深波の家で見つけた三十年前の記事に造りかけの船が載っていました。その船で、深波はこの島を出たがっていました。あなたなら何か知っていますよね? 船の、いや、島の秘密を」





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