32/J


男の子が叫ぶ。

 片手が離れた。

 男の子が叫ぶ。

 指を絡めて抵抗する。

 自分の手から離れていく。

 ああ、あと一本しかない。

 温もりが手から完全に消える。


「お兄ちゃん!」


 行かないで!

 離れないで。

 薄く白い布が頰を撫でる。

白い布を手で追い払う。

いつの間にか男の子が見えなくなった。


「あなたのせいよ」


布は大きく広がって、前を舞う。

前方に現れた光と同化し、布は吸い込まれる。

潤の顔に水がかかった。

息ができないほどの勢いで、布が吸い込まれたところから大量の水が潤を襲う。

水を塞ぐ扉があった。

 扉はゆっくり閉まりはじめる。

 光がだんだん小さくなる。

 光の方へ自分は走る。

 はやくここを出ないと。

 扉が閉まる前にはやく出ないと。

 足元が抜けた。


「潤」


 水中で彼に腕を掴まれる。

 彼の黒目が自分を睨む。

 ごめんなさい。


「このひと殺しめ」











奇岩城に移されてから、潤は城の上層階の八畳ある一室に匿われ、不眠状態に陥っていた。緻密なデザインが彫られたガラスの置き洋燈。顔を出せる程度の小窓が設けられ、長すぎる白く透けたカーテンが床の半分近くまで柔らかに伸びている。黒い岩壁で室内は比較的薄暗いが、窓から入る日差しとカーテンが明るさを補っていた。潤はカーテンに包まり長い間手足を伸ばしていない。与えられる食事をろくに受け取らず、無理やり風呂に入れられ、新しい衣服に着替えさせられる毎日。毎回、白い生地に白い糸で刺繍が施されたワンピースが着せられた。キャミソール型や肘まで袖があるものまで様々。刺繍は花柄が多かった。昼間は脳内にわたが詰め込まれたように何も考えようとしないのに日が沈んでいる間は用意された敷布団にもぐって目を瞑るが脳が活発で眠れなかった。


あの日、伸びるファングネイルを止められなかった事実は潤の自尊心を欠いた。そうすると自分の意思、力、行動、全てが信じられなくなっていく。自分ならやれると思っていた。いつものように無根拠に強い自信で切り抜けられると思っていた。しかし負けたのだ。自分は自分に負けた。今、何故助かっているのかは知らない。しかしあの時、殺されてもおかしくなかった。自分は敵に生かされている。それは死んだのと同然だ。自分が死ぬことは本当の深波の死でもある。

扉を出る時、覚悟を決めたはずなのに潤は今まで認めたくなかった己の心の脆さに絶望していた。

 音を立てることなく部屋に入ってくる男の足が見え、窓に向かい寝返りをうつ。


「殺すなら早く殺せば」


 発した声が小さすぎて自分でも聞き取れない。


「まだこの状態ですか……」


この世で一番聞きたくない声だ。


「亜沙、私は君を救いたいと思っている」

「救う?」


 返した自分の声は憎たらしい。


「そろそろ私たちと今は無きハイマ町、そして灰海街を眺めませんか?」

「ふざけたこと言わないで」

「素敵に変化しつつあります」

「ふざけんな!」


 カーテンを跳ね除け、櫂吏に飛びかかる。

 ファングネイルが宙を舞い、彼は素早く身をかわした。その流れで床に押し倒した潤の両手を抑える。


「殺せ、殺しなよ!」


櫂吏は泣き喚く潤を穴をあけそうな目で見つめ、潤の爪を一つ自分の顔へ向ける。


「……何をそんなにもがいている? その目、何に囚われている?」

「うるさい!」

「誰かに甘えたことは? 誰かの胸で泣いたことは?」

「うるさい! ……黙れ」


 櫂吏は爪を自らの頰につけ、微かに動かした。

 潤の胸元に彼の血がぽたりと垂れる。

 彼は潤の瞳を覗いた。

 何も発さないのに心を舐めまわされている気がする。恐怖に似た感情がおしよせた。どんな体罰よりも恐ろしい恐怖。櫂吏は体を離し乱れた着衣の襟を整えると、ではまた、と左の口端を僅かに上げて部屋を出た。潤は自分の心拍の音が部屋中に流れているようだった。



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