31/D


「さっきは悪かった」


 数分前人質にとった切れ目の女は長い前髪をかきあげ「許す」と無愛想に一瞥し、再び大瑚の右手に包帯を無造作に巻いていく。柔らかな日が差し込む出窓。その淵から室内まで広がった木のつるが、今にも足に絡みつきそうなこの部屋には簡易ベッドが一つ置かれ、建物内の救護室として使用しているようだった。女が包帯を巻き終え部屋を出ていくのと入れ替えにキリウとレインの姿があった。


「ライに感謝しろ」


 レインはそう言い、キリウが部屋に入ると廊下から扉を閉めた。引戸の前で立って待つ影が見える。


「はっきりさせろ。ここの連中はハイマなのか? ゾーオンなのか?」


 初めてキリウに会った時、同じような質問をされたことを思い出す。


「みんなゾーオンだ。訓練を積み重ねているから通常のゾーオンよりは優秀に見えるだろうが、ハイマと真っ向勝負しても到底勝てない」

「じゃあお前だけってことか」


 キリウは一瞬視線を逸らし、赤隈を持つ目で再び大瑚に向き直った。


「だが俺はゾーオンとして生きている。爪を出そうと試みたことは一度も無い。出し方も分からない」


 食事をあまり取らず、鍛えないことで身体能力をゾーオンの仲間に合わせているのだ。極度に痩せたハイマの身体能力は健康的で鍛えられたゾーオンの能力に値していた。それはゾーオンの集団のリーダーとして仲間と同じ土俵で生きることを選んだ男の覚悟だった。


「どうしてお前だけが違ったんだ?」

「ここ、女が少ないだろ」


 ライを含め、大瑚はここへ来てから女を数人程度しか見ていない。


「女が少ないのは昔ジバの連中に根こそぎ連れて行かれたからだ。母親はただ一人だけ、その中から逃げ出した。そして村に戻る道中、俺を見つけた」


 その日はやけに月の光が強く、天灯滝も青白く光っていた。勘違いをした新芽が一つ、一本樹の根元で顔を出している。尻餅をついてその場から動かない小さな体。泣き声がしたその瞬間、母となった女はそっと幼児を抱きしめた。


「捨てられていたのか?」

「あまり覚えていない。だが、そういうことだ」


 天は無数の女たちと引き換えにたった一体のハイマをここに送り込んだのだ。大瑚は皮肉にも集団にとってそれは幸運だったのではないかと思ってしまった。当時のライたちは幼すぎた故に連れて行かれなかった。ジバの連中は何年も前から島を乗っ取るために市内から程遠い山奥の小さな集団まで把握している。そんな危機も知らないまま、自分たちは呑気に生きてきたのだ。


「何か気になることがあったら全部俺に言え。お前のことは全部俺が請け負う。みんなに手を出したら容赦しない」











「すっげ。何ここ」


 低い声にツバメの身は震えた。思わず振り返ると見た事のない、強靭な体躯の男が入り口に立っていた。背が高く、鍛えられた肉体。同じ男性でもみんなとは違う異様なオーラ。父の静かな気迫とはまた違った圧倒的な強さがある。それはもっと本質的なことで、もっと深い。なんか、全然みんなと違う。圧倒的に全然違う。得体の知れない恐怖が小さな体を震わせた。


「驚かせたなら悪い。それ、君の絵?」


 ツバメはただただ頷いた。すっげぇ、と今度は壁に近づきながら男は言った。殺される。自分はこのまま見ず知らずの男の手によって、抹殺、瞬殺、一瞬で殺されるのだ。何度も父を呼んでいるのに来てくれないのは声が出ていないから。本当に怖い時は声が出ないと知った。それでも心で父を呼び続けた。気が遠くなりそう。──ツバメ? 父の声だ。きっと、恐怖のあまり幻聴まで聞こえてきたのだ。











 大瑚は凄まじい勢いで泥のように塗りたくられた壁に見入っている。形というよりも残像のような景色だった。二メートルくらい、何層も絵具が重なっていて年季が出ている。足元に散乱した衣類やガラクタには全て色が付着していてどこを見ても色彩豊かだ。「全て君のもの?」と食器を手にした大瑚の問いに女児ははにかんで頷いた。ふと、窓枠にあった小さな銅板を手にしたつもりが、目に近づけるとそうでないことが分かった。少しキー溝が短めの鍵だ。鍵頭にファングネイルに似た五本の指を持つ掌の絵が彫られている。小さな面積に施された繊細な技に大瑚は意外と感心した。それから適当に動いているうちに木の脚立に膝がぶつかって、その時、気配がした。途端、彼女は引戸に向かい走っていく。


「怖がっているじゃないか」


 キリウは女児を抱き上げた。峻厳で貧相な体に温和で健やかな子供。何よりも彼女が彼を求めている様子が異様に思えた。彼に抱かれ、安堵の表情を浮かべている。


「何もしてねぇよ」

「ここはそっとしておいてくれ。飯できてる。ついて来い」


 後ろ髪引かれる思いで大瑚は部屋を後にした。


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