25/D

集落の女に貰った食糧も底をつく頃、体力を消費した大瑚は水のせせらぎを聞いた。一刻も早く喉の渇きを癒したい気持ちに駆られ、音のする方へと足を歩める。音は次第に大きくなり、ついに、純度の高い水を垂らす薄くて広い滝が現れる。それは高さ十メートル、横幅二十メートルの広くて滑らかなカーテンのようで、白く揺れて美しかった。幻想的なその一角は崖碧と深緑に覆われて少し冷えた空気が流れている。滝下はなだらかな水面が広がり、その水際から生えのびる一本樹は清々しくて実に目を引いた。

吸い寄せられるように体が前へ出た時、一本樹に人影を見つけ、大瑚は素早く身を隠した。女が数人、ズボンの裾を捲り滝壺へと入って行く。彼女たちは木の籠や布袋から大量の衣類を出すとその水で洗い始めた。時折楽しげに水を掛け合って遊んでいる。大瑚は構わないと判断し、水分を欲して再び足を前へ出した。

しかしそのわずか数秒後、いっせいに何かが落ちた、そう思った。

大瑚は取り囲まれる。

(木に潜んでやがった)

統一感の無い服に身に纏った男たちは軽い身なりで無駄のない鍛えられた体をしている。睨む者、薄ら笑いでいる者、全部で五つの体が表情は様々に大瑚を注視していた。

息が詰まる。

緊迫感の狭間で、目と鼻の先にいる女たちの戯れ声が遠慮なしに流れてくる。

(こいつらは何者だ……)

もしゾーオンなら走って逃げ切れば良いことだが、木に潜むなどハイマに違いない。


「俺たちに何の用だ」


澄んだ、温度の無い声だ。

一際細く、薄い体が大瑚の前へ出た。無造作に伸びた前髪から色素の薄い三白眼を覗かせる。やばい、と大瑚の本能は震えた。周囲の面面にそぐわない頼りない体型であるのにその場の誰よりも気高い空気を纏っている。


「俺はただの通りすがりだ」


大瑚はそう言いながら自分の喉が徐々に締まっていくのが分かった。男の痩せ細った頰の筋肉がピクリと動く。彼らは常に戦闘態勢にあった。まさに今、自分は境地に立っているのだ。


「ではただの通りすがり、お前はハイマか? ゾーオンか?」


 何と答えれば正解なのだろうか。彼らがハイマで生き残りだとしたら同じ境遇である大瑚を迎え入れてくれるのだろうか。それともジバの偵察隊だと思われて殺されるのだろうか。逆に彼らがジバだとしたら生き残りであるハイマの大瑚は確実に殺される。

 しかし、彼らにはジバの象徴である刺青が無い。

(どうすんだよクッソ、ちっとも分からねぇ)

 仮にゾーオンだと言えばどうなるだろう。大瑚はしばらく走っていない。俊足を見られてない。それならゾーオンで通せるかも知れないと大瑚は思った。ゾーオンであると彼らに害はないはずである。


「……ゾーンだ」


その言葉に、男は薄い唇で、そうか、と呟き、間髪入れずに大瑚を細い足で強力に蹴り込んだ。

回し蹴りを首横で受け止めた大瑚の体は然程動かず、地に張り付いたままである。その足腰の丈夫な大瑚の態度はとてもゾーオンだとは言い難いものだった。

足を高く持たれたまま男の口端が微かに上がってゆく。(逃げろ……、今だ)大瑚は男を放り、彼らの僅かな隙間に滑り込んだ。そして振り払うようにして走る。追え、と素早く短い男の命令が聞こえる。大瑚は懸命に駆けるが、長旅の長距離走で既に体力を使い切った体は限界を感じはじめていた。今の大瑚の脚力はハイマと呼べるに相応しくない出来である。男たちの足音はすぐ後方から聞こえて離れない。不遇にも山を登る状況へ追い詰められ、どうしても体がうまく進まない。

広い川が姿を見せ、それに沿い林道を走っていた時、前方の崖の斜面にぽっかりと口をあけた丸が見えた。どうやら土に埋め込まれたコンクリートの巨大な穴だ。その口が斜めに荒っぽく削られていて、何かの跡地であるのが想像ついた。男たちが大瑚に届きそうになったその時、咄嗟に未知なるその場所へ潜った。

それは流路の廃墟だった。昔、筏師が筏で木材搬出のためここから滑り落ちて川に至っていたのだ。だが、大瑚はすぐに後悔した。傾斜の角度は増し、奥へ進むほど出口が見えない。そして妙なことに一定の間隔を保ちながら小さな足元灯が申し訳程度に置かれている。(普段から人が出入りしているのか? この廃墟に? そもそもこの廃墟は何だ。この近辺が栄えていた歴史があるのか?)振り向くと奴らはまだ追ってくる。一方通行で引き返す手段は無く、深遠なる人為的な闇の洞窟に大瑚の体は無理やり吸い込まれていった。


百メートル程進んだだろうか。ざっくりと割れたコンクリートの天井の隙間から光が差し込み、辺りがはっきりと見える地点。先の隧道の形が変化しているように感じる。(何だこの構造は……)やがてたどり着いた巨大な抗口。発電所用水路と落筏路に別れた洞内分岐だった。巨大な光の見える方を向くと、旧発電所方面の呆気に取られる馬鹿でかい抗口がある。かつて毎秒何万リットルかの水がここを確かに流れていたのだ。とてつもない水量だったに違いない。その光の先に緑が見え、大瑚はそのまま見事な廃景に突っ走った。

光を浴びた時、体は生茂る緑がへばりつくった謎の構造物に囲まれていた。水門のようなものも見える。荘厳の廃墟風景に思わず圧倒された。コンクリート施設と木々の隙間から下方に先ほどの川が確認でき、ここが相当高所に位置しているのだと分かる。

瞬時に我に帰って振り返る。苔が生えたコンクリートの高い抗口の上で細い男が無造作にしゃがみこみ、耳の裏を掻きながら悠々と大瑚を見ていた。その側で黒のタンクトップを着た垂れ目の男と迷彩柄のズボンを履いたバンダナ頭が同じように大瑚を見下げている。(先回りしやがった……)

抗口の闇から大瑚の後を追っていたメンバーが次々と息を切らして外へ出てくる。先頭を走っていた坊主頭が目をしぼめながら上空を見上げた。


「キリウ、こいつやべぇ」


 息をゼーゼーと吐きながらそう言った彼にキリウと呼ばれた例の男はフッと笑う。


「ご苦労だハイマ、歓迎するぞ」


 大瑚の元へ空気のように飛び降りた。目に入りそうなうざったく細い前髪が、緩く繊細に波打っている。

 ファングネイルを出して攻撃したところで、彼らにも爪を出されると、より大瑚は不利になる。やはり逃げるしかない。

 数歩あとずさりをした瞬間、何かに足を取られ、それと同時に頭を地に打ち付けた。

 視界がどんどん白くなる──。


「俺たちのシマを案内してやる」


薄れゆく意識の中で、変わらず澄んだ声がした。

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