21/D


「ねぇ」


 いい加減にしてほしい。


「ここまで。俺急いでるんで」

「私も急いでいるの」

「悪いけどもう無理なんで」


 大瑚は足を進めたが、足元の悪い山麓で女の必死な声が後ろから離れようとしない。走っても良いが、相手が納得しないまま置いて行くことには胸が痛む。


「ねぇ」

「もう無理です」


 歩みを止めずに返事をした。女の鬱陶しさと置いていけない自分の良心にイライラする。


「あなた大学生? それとも社会人かしら」

「高校生」

「あらそれは失礼。随分、なんかこう、筋肉? 背が高いからかしら、大人っぽく見えるわ。あ、ハイマだからそう見えるのね。ごめんなさい。私ハイマの人たちのことあんまり知らなくて」


 脇目で女を見ると、大瑚の肩でしなった小枝が目に入りそうになるのに四苦八苦しながら、それを防ごうと終始両手を眉辺りにやっている。双眼鏡を表しているみたいで少し面白いと思った。


「もうそんなことどうでも良い世の中だけど」

「そうね、もうどうでも良いわよね」


 今度は枯れ葉の屑が口に入ったようで唾を吐く音が聞こえた。


「今は俺もお姉さんも逃げないとヤバいから」

「あのジバっていうハイマたち、あの人たち何なの? 最近になってよく村に押し入って来るのよ。今まではこれほどのことは無かったのに……あの人たちとても怖い」

「俺も知らないので」

「そう……。あなた、これからどうするの? ハイマ町は破壊したって無線で聞いたわ。行く宛は?」

「無線?」

「ええ、無線で聞いたわ。私たちのような集落は昔からジバと無線で」

「昔から? ジバと?」

「え、ええ」

「ジバの存在、いつから知ってんだ?」

「ずっと前よ。私が物心ついた時にはみんな無線を聞いてたから確か三十年くらいかしら」


 三十年____この単語に懐かしさすら覚える。ここに来るまで潤と深波と何回も口にした。

 

「その話、詳しく聞かせて」


 この女をおぶって来た意味が見出せるかもしれない。









 ツバメは使いかけの腹がへこんだ絵具を両手いっぱいに掴んだ。全然両手に収まらない。部屋のあちこちにも絵の具が散乱している。

 ふうっと鼻息を吐いた。そしてそろそろ片付けないと、と思ってみる。思ってみて、やっぱりやめる。絵の具は片付けるものじゃなくて、塗るものだ。描くものだ。


「ぶちゅー」


 自分で効果音をつけながら床に絵の具を出していく。


「ぶちゅー、ぶちゅ、まぜまぜまぜ」


 絵はほとんど自分の両掌を使った。手に直接色を塗り、この部屋の壁に押し当てる。時には叩いたり、優しく撫でるようにした。

 これは仲間がくれるものだ。オリーブを売る為に月に一度、係が市内に繰り出してはその売り上げから生活に必要なものを買って帰る。それと同時に街で捨てられていたガラクタを拾ってくるのだ。長距離の帰路に支障ない程度に優先順位の高いものから選んでいるようで、絵具の順位は低いが、絵を描くことが好きなツバメを思って毎度拾ってきてくれる。

 この部屋一面はツバメの自由にして良いとされ、描くスペースが無くなると上から重ねて塗った。拾った絵具だけじゃ足りないから自然のもので母に作ってもらうこともある。例えば野菜なんかは鮮やかな色が出てとても綺麗だ。そうして何層にもなった色はそれぞれに主張しあったり、片方にのまれたり、混ざり合って新たなものとなっている。手を使うのに飽きると物も使った。皿のふちに色を塗って押し当てたり、歯ブラシを使ったりもした。ツバメの世界では彼女が手に届く物全てが絵を描くための材料だった。枯れ葉、小枝、花、動物の皮、父と母の使わなくなった洋服、誰かが落としたハンカチーフ、手袋、髪飾り、小銭、鍵。ここにあるもの全てがツバメのものだ。


「ご苦労様」


 父の声が聞こえる。


「ジバの無線通りだった。灰海街を除いて市内は壊滅状態だ」

「仕方ないからオリーブは灰海街で安くばら撒いたよ」


 数週間の長旅から帰宅した係たちと報告を受ける父の茶色い影が戸越しに見える。

 しばらくしてツバメー、と言いながら係の一人が引戸をノックした。

手を絵具で汚したまま扉を引くと、臙脂色のバンダナがトレードマークな彼はツバメの目線に合わせて屈んだ。


「今回絵具見つかんなくてさ、代わりにこんなの拾ったけどいる?」


 彼は眉頭をあげて傷の付いた木箱を見せる。


「この棒を弾くと音が鳴るんだぜ。多分楽器なんだろうな」


 木箱には薄い鉄の棒が数本取り付けられていて同時に丸い空洞があった。彼はその棒を弾いてみせた。

 綺麗な音色だと思った。


「いる?」


 コクリと頷き受け取ると、ツバメの頭を撫でて満足そうに去って行く。


「鳴らしてごらん」


 そう声がして、棒を弾くと木霊のように柔らかい音がした。


「良かったね、ツバメ」


 父は強い。賢くてかっこいい。自分より遥かに低い声で「ツバメ」と優しく呼んでいる。温かくて丈夫な腕で、優しくそっと抱き上げてくれる。太陽の匂いがフワッと広がり、頬にチュッとしてくれる。温かくて広い胸。ここにいると何時間でも眠ってしまう。




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