20/D
自分は今、自分に対してとてつもなく恐ろしいことをさせているのではないだろうか。大瑚は無心で走りたかったが、どうしてもそう思ってしまう。走りすぎて喉が火傷を追ったように痛い。学校も習い事も友達と一緒だから楽しいのだ。こんな苛酷な逃亡だって仲間と同じだからこそ乗り越えられるものである。堪らない不安に襲われる大瑚の体を突き動かしているのはたった一つ、仲間との約束だった。自分はただ信じて進み続ければ良いのだ。進み続けるしかないのだ。
程なくして奈落へ転がるように転倒し、木々の根元に体を打ち付けながら薄暗く人気のない民家の裏へ着く。伸びた髭で容姿は実年齢より少し老けた。背中の汗疹が痒い。地を這い、雪崩れ込むように勝手口へ忍び込む。脇目も振らず流し台の蛇口を捻り、勢いのない水道水に口をつけて思う存分飲んだ。その間、着火台の脇にあるトマトや胡瓜、山菜が束になっているのを見る。玄関の扉が開く音がして、素早く食糧を盗み、勝手口から外へ戻る。そしてまた裏山へと駆け登る。
大瑚が拘置所を出発して実に一週間が経った。ハイマ町の後方に回り、そこから島の中心を南へ進んでいたが、しだいに進み続けるうちに生茂る森の中で完全に方向感覚を失ったのだ。奇跡的に見つけた三十世帯程からなるゾーオンの小さな集落は高齢者が多く、みんな自給自足でひっそりと生活していた。大瑚は命を繋ぐため、ここで食べ物を盗んでは山へ引き篭るような生活を続けている。この集落にいると太陽の位置も分かるが、また日の当たらない森へ入るともう2度と出てこれない気がしてならない。このままでは南端監視所へ辿り着くことは愚か遭難死してしまうという不安からこの生活を離れられないでいた。
──潤、今どこにいる?
日が落ちる頃、今日も木の上でピーキングをする。背の高い一本杉は集落を見渡したり、ジバから身を隠すのに都合が良かった。あれから潤と深波からの返答は一度もない。
「逃げ切れたはずだよな。絶対にそうだよな」
空虚に下の集落と空の境界線を眺めた。ピーキングが届かないのは距離が不十分だからであって、二人は今も自分の後を追って山々を駆けている。さすが自分の脚力だ、と誇らしげに思うことにした。こうなれば一番に監視所の爺さんに会って話を進め、二人が着く頃には解決させておこう。そして二人を驚かせよう。
「さすが大瑚。やはり足が速い」
そんな風に深波は自分を褒めるだろう。潤の悔しそうな顔を早く見たい。想像し、鼻で小さく笑った。少し上がった口元に涙が触れてとても可笑しい。大瑚は自分が今とてつもなく寂しさを感じているのだと知った。
潤んだ視野が赤くなり、夕焼けかと思ったが日はとっくに落ちている。集落が騒がしくなり、赤い物体はジバが持っている大きな松明だとわかった。二人のジバが拡声器でゾーオンたちを呼び集める。
《今すぐハイマ町に集まれ。死体処理を手伝うのだ。無線で連絡したはずだぞ!》
各家からゾーオンたちは重い足を上げてジバの元へ集まっていく。
奴らが行ってから民家でたらふく物資を得よう、と大瑚は肩を鳴らしたが、すぐゾーオンが戻って来れば良いが何日も戻らなければ自給自足の集落はそのうち食糧不足になってしまうと考えた。
「そろそろここも出ねぇとな」
その瞬間、ゾーオンの悲鳴が聞こえた。ファングネイルを出したジバが松明の火を民家に投げ放っている。(誰かがジバに反抗したのか……?)
次々に火が放たれて燃えていく集落へ大瑚は突っ走った。辺りは騒然とし、わずか二人のハイマに斬り付けられ、薙ぎ倒されていく無数のゾーオンたちがすぐ近くに見える。前から目をつけていた猪飼いの家に行き、二階によじ登ると窓を割ってその中へと忍び込む。中にゾーオンはいない。台所でローストハムを見つけると震える手先で乱雑に抱えられるだけ取った。踵を返した瞬間、女がひとり、部屋のドア横で大瑚を見て固まっている。彼女は目立ちはじめた目尻のしわと法令線をひくつかせた。大瑚は一瞬心臓が跳ねたがゾーオンであることに安心し、再び逃げようと窓の方を向いた。「待って」と、そんな声が聞こえたが大瑚は無視して飛び降りる。
「こ、ここにハイマが」
女が次に瞬きをした時、大瑚は再び家の中にいた。
女の上に跨がり、口を手で押さえ、発せられる言葉を封じ込める。
「殺すぞ」
そう言ってから手をどけて床に散らばったハムを拾う。よくよく考えると年上に向かって“殺すぞ”なんて最悪だったなと反省した。
女は体の震えが止まらないまま、
「袋」
と言った。
「袋、いる?」
質素な棚上の青い花瓶の横に吊るされていたベージュの大麻袋を大瑚へ向ける。花瓶の花は花菱草と言って母がよく好んでいた。
大瑚は無言で袋を奪った。
「赤ちゃん」
その場にそぐわない単語に大瑚は眉を歪めた。
「赤ちゃんが欲しいの。ここにある物なんでも持っていっていいから、赤ちゃんが欲しいの、赤ちゃんが」
「は?」
お互い一刻も早く逃げなければならないという危機的状況の中、女はその場にそぐわない事を言った。
「牛乳もパウンドケーキもあるわ。椎茸人参茄子にスイカ、あ、スイカはさすがに重いよね」
そう言いながら大瑚の持っている袋へ台所にある食料を全て詰め込もうとしている。
大瑚は呆気にとられながらあるものを思いついた。
「……地図、いや、方位磁針。方位磁針」
「あ、ある」
棚の引き出しを開き、女は方位磁針を手にすると大瑚へ渡した。
受け取り、窓枠に手を掛ける。
「お願い……」
振り返ってしまった。
「お願い、連れてって。途中までで良いの」
懇願する女を見て、親切にしてくれた相手を見殺しにすることはできない、そう判断した。この場凌ぎだ。途中まで、途中までなら、そう決めて女を背負った。
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